<harmony /> ハーモニー

なかむらたかしマイケル・アリアス共同監督、山本幸治脚本、伊藤計劃原作、2015年

 ネタバレ注意

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主人公のトァン⬆️です。

 

 

 素晴らしいアニメ映画です!質が良くて嬉し泣きしました。

 (アリアス監督は、「鉄コン筋クリート」の監督だし、なかむら監督は「アキラ」で作画やってた人なんですねえ。)

 

 

 この映画はモノローグで進行する、会話劇の趣です。

きちんと、アップショットの時に画が動きます!それだけじゃなくて、画の撮り方もイケてるし、2重に画を被せたり、粋です!

 

透明なランプシェードが、あぁ、透明で、綺麗でした!見惚れました。

ラストの一連の画が素晴らしさくて!感動しました!

 

 

 あらすじ

 大災禍」と呼ばれる大規模な混沌から復興し、その反動で極端な健康志向と調和を重んじる超高度医療社会が訪れた世界。ある時、数千人規模の命が奪われる事件が発生し、その背後には、13年前、まやかしの社会に抵抗して自殺したはずの少女・御冷ミァハの影があった。ミァハとともに自殺を試みるも失敗し、生き延びて戦場の平和維持活動に従事していた霧慧トァンは、ミァハの存在を確かめるため立ち上がる。com

 

 

 この映画には、少女たちの自殺が出てきます。

彼女たちは、医療管理された、寛容な社会で暮らしています。

 

 

 超高度医療社会の建物

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 こうした未来社会の建物やインフラといったガジェットが最高でした!

 

 

彼女たちが暮らしている町の建物というのは、まあ、ピンク色なんですねえ。

可愛いですけど、色をピンクのグラデーションに統一しており、閉塞感があります。

 

少女たちが自殺する理由というのは、このある種、異様な統一された建物群の圧迫感でしか、表現されません。(しかし、レベルたけー!)

彼女たちが死のうとする理由は、共感が得られないように、作られています。

そうするしかないですよねえ。

 

 

 

 ミァハ⬇️。トァンやキアンに絶大な影響力を持つ少女。

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 彼女は、「意識を持たない」民族の出身です。

 

この映画では、「意識」という言葉がよく出てきます。

この映画での「意識」の使われ方は、「自己認識」とか「精神」というような意味だと思われます。

 

ミァハは、意識のない社会を作りたい、と言います。

 

 意識がない、とは、多分、この映画では、ロボットのようなもの、AIのようなものを想定していると思います。

 (面白いですね。「物自体」を認識することができるって可能性がありますよね。) 

 

 

トァンはミァハを抱きしめ、「あなただけは行かせない」と囁きました。

人類から、意識が奪われていきます。最終プロジェクトが発動されました。

 

美しい自然の佇まいが次々と映し出されてゆきます。

圧巻です!

高度に管理され安定した社会は、小さな綻びから、死への欲動が動きだします。

この美しい映像と音楽は、それに対抗することなく、平行な道を示します。

生きる喜びをもたらす自然なのです。

(製作者たちの苦労が偲ばれます…。ほんとにレベル高いです。)

 

 

さよなら、わたし。

さよなら、たましい。

もう二度と会うことはないでしょう。

 

ラスト、伊藤計劃の言葉がひとつずつ消えていきました。 

 

 

虐殺器官

原作は伊藤計劃村瀬修功監督、脚本。2017年。

 ネタバレ注意

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虐殺器官』は、34歳で病死された伊藤計劃氏の処女作、SF小説です。

未読なんですが、ブログを見て、『アデン・アラビア』の一節を思い出したりしていました。

 

ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。(ポール・ニザン

 

なんとなく、SFではあるけど、私小説的な(というのも変かな?)心情が綴られていて、若い怒り、悲しみ、アナーキーな感性を持つ瑞々しい小説なのではないかなあ、と思っていました。(読め!ってね。)

 

それがアニメになりました!

 

あらすじ

世界の紛争地帯を飛び回るアメリカ軍特殊部隊のクラヴィス・シェパード大尉に、ジョン・ポールという謎のアメリカ人を追跡せよとのミッションが課せられる。世界各所で起こる紛争や虐殺の影には、優秀な言語学者だったというジョンの影がちらついていたが、いつも忽然と姿を消してしまうという。ジョンがチェコに潜伏しているという情報を得たクラヴィスは、追跡を開始するが……。com

 

 

原作未読のわたしの感想は、です。

軍事作戦シーンや海中の作戦シーンとかの画がとても良かったです。

(ネットの感想を見てみると、原作をとても愛して製作されたようで、変更箇所は数カ所だったそうです。 )

 

 

ラヴィス大尉はジョンを捕まえるために、ジョンの恋人のルツィアに近づきます。

ラヴィスは、どういうわけかルツィアを愛するようになります…。

わたしは、これはジョンに「虐殺文法」で洗脳されたからなんだろうな、とずっと思っていました。(違うらしい)。

 

そして最後、サイコな野郎に代わって、クラヴィスがサイコになってしまう理由も理解不能です。

心情的な物語が欠落しています。

 

つまり、クラヴィスの内面は一切描かれません。彼は、軍事的に脳の調整がされた無感動、無痛、な兵士、最初から最後までそういう印象です。

 

ラヴィス大尉。

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印象としては、上の写真のような、口だけ動く顔を見せられながら、延々と長台詞といったシーンが多々あります。

抽象的な声だけが乱舞している感じです。

 

映像は声に比べると、とても明確なメッセージを持ちます。

声、言葉は、曖昧な意味の広がりを持ちます。

 

だから、表情を持つ顔を見せられる実写映画なら、詩情のある物語になるかもしれません。

予算が無かったのか、原作に遠慮して、大胆な変更を伴った脚本にできなかったのか、でしょうか…?

 

世界の至る所にある、貧困、テロに対処するときの倫理的問題等、面白いテーマを持ったアニメでした。

 

 

 

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

アレハンドロ・ゴンザレス・ イニャリトゥ監督、脚本。2014年。出演マイケル・キートンエマ・ストーン

 

ネタバレ注意!

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映画、冒頭のレイモンド・カーヴァー の散文。

 

おしまいの断片

たとえそれでもきみはやっぱり思うのかな、
この人生における望みは果たしたと?
果たしたとも。
それで、君はいったい何を望んだのだろう。
それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって
愛されるものと感じること。

 

 

 

とても哀しい男の物語…。

 

 POV方式の撮影は、リーガン(キートン)のジリジリした切迫感や舞台裏の閉塞感といったものがいっしょくたに立ち昇ってくる。

 

 ほぼワンカットの撮影ということだが、繋ぎ目がわたしにもわかる箇所があった。

舞台稽古のシーンなのだけど、二つのシーンに隙間があり、時間の経過が見て取れる。なぜか新鮮!

 

 

 リーガンはかつてバードマンという映画で一世を風靡した。

年老いた彼は再起をかけ、ブロードウェイで製作、脚本、主演による舞台に賭ける。

 

 ほぼワンカットのせいなのか、リーガンの幻想、焦燥感、現実、といったものがぞろぞろ並列している。おまけにそこに実際のマイケル・キートンの境遇が重なる。

(リーガンを演じるマイケル・キートンはかつて有名なバッドマンを演じていた。)

まあ、ブラックユーモアだ、って言えば言えなくもない。

 

「この舞台に賭けているの!」と言う女優役のナオミワッツは「マルホランドドライブ」を思い浮かべずにはいられないし、ちょっと笑った。

 

 

舞台の開幕が迫る頃、 

有名なブロードウェイの舞台批評家は、ハリウッドしか知らないリーガンに対して、強烈なハリウッド批判をする。

 

 しかし、

ハリウッドがリーガンに芸術を求めているわけではないことも、ハリウッドで成功するために払った犠牲も、そしてブロードウェイが一長一短ではいかない世界であることにも、彼は薄々気がついているのだろう。

けれど彼は、娘に残すはずの財産を抵当に入れてまでも、ここで成功してハリウッドに戻りたい、と考えている。

 

 

 

 娘のサム(エマ・ストーン

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娘サムは薬中のリハビリ施設から戻ったばかりだ。

 

リーガンが制作中である劇の原作は、

カーヴァーの「 愛について語る時に我々の語ること」だ。

愛がわからなくなってしまった、2組の夫婦のお話。

 

「この役は、俺のことじゃないか、だんだん、そう思えてきたんだ」

リーガンは娘に向かってそう言うのだ。

 

 

リーガンの視線はいつもせわしなく動く。だからPOVで捉えられる彼の視線の先の画面はちらついているのだが、画面はサムの上でよく止まる。

 リーガンの中心にサムが居座っているということだ。

 いま、「ハリウッド」と「愛」の狭間で引き裂かれているリーガンは幻覚に悩まされている。

 

そもそも、業界の人間しか出てこない神経症的映像のなかで、サムは異質だ。

各シーンが孕む潜在的な意味において、サムは、巨大なハリウッド産業が生み出した犠牲者でもある。

全てをハリウッドに捧げている父親は家におらず、子供は父の暖かさも怒りも知らない。

 

 

 

そして、舞台成功後の悲喜劇。

「愛される者」として娘の前に存在したいリーガン、彼の視線の先の娘は、確かに彼を愛していた。

彼の視線と同一化しているわたしにはそう見えたのだ。(よかったなあ、と思ったよ)

 

しかし、彼は、窓から飛び、空中にバードマンとなって浮かぶ…。

娘はバードマンを敬愛の目で見つめる。

 

これが彼の幻覚であるなら、彼は、娘を捨てたのだ。

ハリウッドを選ぶということはそういうことだし、そうではなくてタナトスに向かったのだとしたら、彼は娘の愛を見つめる事ができたということだ。