チャリングクロス街84番地、本好きが見る映画

デヴィッド・ジョーンズ監督、 1986年。

 アン・バンクラフト、アンソニー・ホプキンスジュディ・デンチ

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NYのアパートで。売れない作家役のアン・バンクラフト。 

 

 

 「さあ、やっと来たわよ!」

呟くアン・バンクラフトがアップになる。

ラストシーンなのだが、彼女の微笑みは、感慨深い…。

 私は彼の死を悲しみ、バンクラフトがやっぱり好きだと思った。

 

 

有名な書簡集が原作のとてもとても好きな映画。

あらすじ 

 NY在住の女流作家が新聞広告で観たロンドンの古書店稀覯本の注文を出すと、真に丁寧な返信と共に目当ての本が送られてき、小踊りした彼女は以来、文通という形で単なる友情を越えた感情を、その古書店主と、以後20年以上に渡って分け合っていくことになる……。yahoo映画

 

 

 ロンドン老舗の古書店主、アンソニー・ホプキンス

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チャリングクロス街や古書店内部が写るとウットリする。

古めかしくてシックなんだ。ああ、ロンドンをシックだと思うなんて、私はどうかしている?(いや、シックといえば、フランスだという思い込みのせいかも)。

 

しかし、古書店やイギリスへの憧れを掻き立てるのは、バンクラフトなのだ。 

 彼女は、お茶目でガサツだ。

彼女が映像の中を動き回るたびに、英国文学や古書への愛がふりまかれ、チャリングクロス街や古書店が引き立っていく。

 

バンクラフトが嬉しそうに開く古本から、懐かしい香りや紙の感触が伝わってくる。

古本の匂いが苦手なわたしがぁ!)

 

ああ。わたしは本が大好きだった。

 

彼女は、英文学の歴史に造詣が深く、小説より、記録物、日記などをよく注文していたように思う。

 

そそ、原作は書簡集なんだけど、注文の手紙から、請求書の手紙と始まって、少しずつ、両者の距離が縮まっていく。

プライベートなことも書かれるようになり、それは当時の社会状況をも映し出す。 

 私はこうした空想の余白がある記録が好きだ。

例えば、武士の日記などに「不作のため、米一合で3日間」とか書いてあると面白いでしょ?

不思議な余白を残しつつ、快活なアメリカ女性とイギリス紳士のやり取りを画面は伝え、ラストショットのバンクラフトのアップが心を騒がせて消えていく。

 

 

 

アイ・アム・マザー、マザの教育

グラント・スプトーア監督、2019年。Netflix、SF。

 クララ・ルガアード、ローズ・バーンヒラリー・スワンク

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 ドータ(人間の少女)とマザ(ロボット)の二人。⬆️

 

 寄り添う二人は少女とロボットだ。

ロボットのマザが、かすかにカラダを傾ける。

その瞬間、ロボットの後ろ姿から、慈しみが溢れた…。とてもとても美しいシーンだった。

 

 あらすじ

人類の絶滅後、再増殖施設内でたった一人ロボットの母親に育てられている少女。だが、彼女の前に別の人間が現れたとき、ずっと信じてきた世界が揺らぎ始める。Netflix

 

この映画はサスペンス仕立ての心理戦の様相を呈するSFで、私はおおいに楽しめた。 

 

 

 ドータ役の素晴らしいクララ。

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 ドータの完璧な世界は、外部からの侵入者によって揺さぶられていく。

始まりは、小さなネズミだった。そのかすかなひび割れは、撃たれて逃げ込んできた人間の女(ヒラリー)によって決定的になっていく。

 

 ロボットを恐れ憎んでいる女、ヒラリー・スワンク

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 こうした内部と外部の対立構造は、外国映画に多い気がする。日本映画であまり見たことがないように思う。

 不思議だ…。彼らにとってのプライベート空間をわたしはあまり理解していないのかもしれない。

 

  

 「籠の中の乙女」とか…、に、この映画は似ている。

ドータは外部との接触によって急速に大人になるのだ。彼女にとって外部との関わりは、自分の考えを主張することであり、自立することなのだ。

 

ラストの彼女の顔が、アイアムマザと重なる。

 

 

 

 

ネタバレになるけど、「意味わかんない」とネットでたくさん見たので、書いちゃう。

彼女の自立を促したのは、マザなんです。また、女もこの施設で生まれ、外で生活させ、そして彼女だけを生かしたのも、マザでした。

しかし、マザを作ったのは絶滅を覚悟した人間だったわけです。

(この理解が正解だ、とは言いません。間違っているかもね。)

 

 

適応しないと花も咲かない

 このクロフネツツジは本州で生まれた。

 

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数年もすれば、北海道の気候に適応するだろうと思っていた。

しかし、5年が経っても成長せず、このツツジの季節感は狂ったまま。夏だというのに、紅葉を始めたりする。

 

わたしは花を咲かせず何物にもなっていない、このツツジに寛容だ。

 

凡庸なわたしは、(罪悪感を抱いたことがないと言えば嘘になるが)、何者かになるには、能力も努力も徹底的に欠けていた。

いやあ、平凡、凡庸、あいしてるよーぉ!(๑・̑◡・̑๑)

 

かつてわたしは、そうだなぁ、10回くらいは仕事を変わっている。

一生懸命やるが、疲れてきて飽きる…。

語弊がある言い方かもだが、男に生まれていたら…やばかった。死んでたかも。

今考えると、たぶん私は適応能力が低い。

 

 

本来なら美しい桃色の花で華やぐはずのツツジちゃんは、今年も花を咲かせなかった。でもツツジは頑張って葉を茂らせている。

 

 

「お前の人生とは何だ?」って声が聞こえる。

わたしは一生懸命、生きたよ。

 

 

 

花…見たいなあ。