スカイウォーカーの夜明け/少女のいるべき場所

長い長いSWシリーズでは初の、少女レイが主人公。「続三部作」の最終章。

 ネタバレ注意!

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戦うレイとレン(下)。 

  

映画館

J・J・エイブラムス 監督、脚本。2019年。

アダム・ドライバー(レン)、デイジー・リドリー(レイ)。

SWシリーズの完結編、エピソード9。

 

とてもとても苦心惨憺してまとめあげたんだなぁ、JJ監督はぁ。

 戦いの中での少女の成長物語なんて一体、どうするんだろうと思っていた。

 

少女レイは実はラスボスである皇帝の孫。レンはレイア姫とハンソロの息子であるが、立場は逆転している。レンは皇帝の側だし、少女レイはレイア姫をマスターとして仰いでいる。

 

レイア、レイ、レンは、ある意味で同一である。

少女レイにとって、レンはもう1人の闇の自分である。そして彼女はレイアでもある。

つまり、戦う少女レイは、母としてのレイアなのだ。

 

悪玉の皇帝の孫であったことがわかった時、少女レイは荒れる。それを諫めるのが生霊のルークである。(ルークとレイア姫は双子。)

 

父殺しのレンは幻のハンソロから許される。アダム・ドライバーが強力な存在感で別の物語を紡ぎ出しそうになるが、それはまあ、しょうがない。

なにせ、ジョージルーカスのSW(父親であるダースベーダーと戦うルークとレイア姫)の変奏と見ることも可能なまとめ方なのだから。

 

とまれ、正真正銘のラスト、レイとレンは自分のいるべき場所をきっちり見つけるのである。

 

…そういう骨格を持った少女の成長物語であった。…。

 

が、「いるべき場所」の象徴的母であるレイア姫。彼女のオーラに映画の全てが集約していかねばならない、のに、レイア役の有名なキャリー・フィッシャーが死んでしまった。

CGやら過去フィルムを使うやらでレイア姫のシーンを誤魔化しているが…そらね、どうにもならない。

そして少女レイ役の女優さんは、表情が凛々しく怒ったような顔つきで、感情の揺らぎを表現してくれない。体つきを見ると、どんだけ頑張って鍛えたんだろう、と思うけど、何ていうか、わたしは最初から彼女が可愛くなくて好きじゃないのよねぇ。

 

というわけで、何年間も構想を練り直し、脚本を書き直しただろう労作は、そらね、楽しみましたけど、あるべき場所から滑り落ちていました。

 

 

灰色の雪雲と女の子

 降りしきる雪を見上げている女の子が何か呟いていた。

彼女は「わたしを見ていてね」と言ったのだと思う。

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雪が止みそうだ。灰色の雪雲が割れて西側に空が見える。

 グレーとピンク色の雲を見て、昔こんな色のニット帽を持っていた、と思い出した。

 

女の子の顔にひらひらと雪が落ちる。

 彼女の頬が濡れている。雪が溶けたのだろうか。

 彼女は髪とまつ毛の雪をグレーとピンク色のミトンではたいた。そして、ミトンとお揃いのニット帽を被り、歩き出した。

 

 

雪が降る

 しんしんと降っている。

 わたしは外に出ない。ぬくぬくとした部屋から外を眺めている。

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黒っぽい点は降っている雪。大きな松の下の庭木だけ雪を被っていない。

 

 

心が疲れている時…わたしはスタトレ を見る。 frikandelさんは「コロンビアーナ」なんだな…。

 スタトレ はわたしを安心感で包んでくれる。

新スタートレック 」のエピソードにマーク・トウェインが出てくる。

彼はタイムスリップして24世紀に来た。「ありえん!たくさんの戦争があり、政治権力は謀略に満ちているのだぞ」

「いいえ。地球は完全な平和を達成しました」とベタゾイド人のトロイは満面の笑顔で答えるのだった…。

理想や夢や愛の陽炎は心地良い。

けれど、このとき、こみ上げる嘲笑には異化効果があって、哀愁が含まれている。

 

 

今はちょっと煩わしさを感じてしまうので「ロストインスペース」は所々しか見ていないのだが、最終話で子供たちが手を繋ぎ、「もう僕たちは孤独じゃない」というシーンがあった。

わたしもecoさん のように孤独でしょうがなかったときがあった。

昔、うろ覚えで申し訳ないが、「バッファロー‘66」という映画を題材に、郊外について研究した本を読んだことがある。

 その中で、心に残っている話は、住居の形態が人間関係に及ぼす影響についての話だ。

 孤島で暮らしている様な、一人ぼっちになりやすくて、コミュニケーションの断絶が起こりやすい環境。

ホンサキさんがおっしゃる様に「人を信用すること」無くしては何も始まらないだろう。 

 

そうして、「ロストインスペース」の見知らぬ同士であった子供たちは、まず、手を繋ぐのである。

それは他者に向かって心を開くということだし、他人を信用するということなのだ。

 

 ミセスGに「甘えること」について教えてもらった。わたしはRに甘えない、と思う。可愛げのない女だとか、そういうことはどうでもよくて、自分でちょいとびっくりした。

…なんつうことか。

わたしはたぶんRを信用していない \( ˆoˆ )/…。