私をあんなに悲しませたその事について書いてみる。
「キャロル」に出てくる男性たちは皆可愛い。
そこがこの物語の優れているところだと思う。
キャロルの夫も弁護士たちも、女性同士の愛を「女学校時代のお遊び」くらいにしか理解出来ない。その時代の常識人であり、その枠を超えることのできない人達であり、むしろ優しさを感じる。
決して、差別者としてキャロルたちに対立させていない。(ここがイイ)。
マイノリティが差別を受けたり、公平に扱われないとき、どうするか?
あなたが差別や屈辱を受けた時、どうする?
笑って大人としてやり過ごす?
これは、戦わなければならない。声を上げて戦わなければ、差別も(例えば、イジメだって)なくすことはできない。
けれど、ここには問題がある。
差別がなく公平な社会をあなたは望む?よほどのへそ曲がりでもない限り、公平な社会っていいな、と思うでしょ?(まあ、もちろん、理想論だけど)。
人種差別や性差別をなくすために戦う時、反対意見が必ず出てくる。
「仕事を奪われているのはこっちだ」「お茶汲みだって立派な仕事だ」等々。
この時、反対意見を「マジョリティ目線である」として糾弾すると、マイノリティとマジョリティという二項対立が生まれてしまう。
そ、根本は同じはずでしょ?公平な社会が良いのだから。
二項対立は不毛でしかない。
差別的な事象についてはきっちりと批判するべきだけど、その時に上がる声(反対意見)には、(そのバッググラウンドも考慮しながら)一つづつ丁寧に考える、もう、そういう時代が来ていると思う。
あ、えっと、つまり、キャロルって映画は慎重に二項対立をさけているなあ、と思ったって、話です。
あ。えっと、わたしなんで悲しかったんだろ?ほんとを言えば自分でもよく理由がわからない。
…何もできないから…違うかな。