「マイ・マザー 」「マミー」

「マイ・マザー」はグザヴィエ監督が19才の時の初監督作品。

16才のときの原稿をもとにしているらしい。

 

f:id:knori:20180717055517j:plain

 

母親と友人の切り返しのショットがあまりにも新鮮で、ワクワク!構図も新鮮!やって見たかったんだねえ!

 

けど、後半、失速。どーしたん?寝かけたちゃったよ!(それともわたしが疲れていただけか?)

 

この映画は、15、6才の少年(ユベール)とその母親の確執を描いたもの。

ユベールの苛立ちや嫌悪感や愛といった反抗心はまともに母にぶつかる。

交際相手の少年は家族にカミングアウトしているのに、ユベールは母親にカミングアウト出来ていない。

つまり、カミングアウト出来ない、(普通を望む)母の雰囲気があるわけ。

 それは、やっぱ、想像でしかないけど…母はぶっ壊したい壁なんだろうし、いや、すでにユベールは別の場所に立っているのだけど、それでも15、6才の親の庇護が必要な者にとっての「母のあたりまえ」はいっらつくしょお!

 

素の自分が認められていないと感じているユベールにすれば、母から愛されていない、という感覚があるのだろう。

彼は母に聞く、「今日僕が死んだらどうする?」

母は立ち去った息子の背中に向かってつぶやく。「わたしは明日死ぬわ。」

 

なんで19才のガキがこれを知っているの!わたしはほんとにびっくり!

つまり、グザヴィエは全部わかっていてこの映画を作ったってことなんだ…。

 

(ハリセンがビシバシ飛んできそーなんだけど)、わたしはおもちゃが欲しくて子供を産んだの。動機はね、そーでしたけど、いざ子供が生まれてみると、彼はわたしの全ての愛を持っていきましたね。Rには残りカス、ってあんばい。

だから、わたしは子供が死んでしまったらどうしようと怯えてしまって、出た答えは、私も死ぬでした。(もちろん違う人もたくさん居るでしょうけど)、多くの母親は、子供が死んだら生きていけない、と感じているはず。

 

そんな子供に話すこともないようなことをグザヴィエさんが知っているとは。

 

 

わたしは反抗期って無かった。だから、息子の反抗期を楽しみにしていた。マジで。

…息子も反抗期、無かった。

まあ、ものっすごく女の子が欲しくて夢もいっぱいあって、あれもそれもこれも教えようとかいっぱい想っていたけど、生まれたのは男。男に対してはなんの希望も夢も無かった。息子に反抗期がなかったのはこれもだいぶ関係しているなあ、と後になって思った。

もう一つは、息子は小学生の時に積分の概念を考えているような理系オタクで、ユベールの年頃には、私には息子の話が難し過ぎたし、息子にはわたしの話が難し過ぎた。たぶん、ここらへんも関係しているような気がする。

 

 

 グザヴィエは息子目線のこの映画の5、6年後に母親目線の「マミー」を撮る。

 

「マミー」⬇️

f:id:knori:20180717055728j:plain

 

母親からみた「マイ・マザー」という感じの映画。

さすがにこっちの映画の方が優れているとは思うんだけど、どーもこの映像の古臭い暖色系の色が 好みじゃない。

 

15、6才の息子(スティーヴ)と、母親(ダイアン)の友人(カイラ) がやりあうんだけど、本気で怒ったカイラがスティーヴに馬乗りになって恫喝するシーン。

身を起こしたカイラは自分のジーンズが濡れているのに気づく。それは本気で怒った女のおばさんが怖くて少年が粗相をしたのだけど、このとき、(発達障害児のなんたるかを知らない)観客は、少年が自分ではどうすることもできないものを抱えていることをまざまざと理解させられる。この短いシーンだけで!すごい。

 

まあ、ダイアナは一生懸命に息子を愛しているのだが、スティーヴは「かあさんは、いつか僕を捨てる」という。

 スティーヴは分かっている、ダイアナの夢を。いつか、息子が治って、普通の子供になり、成長し、結婚し、子供を持つ、そういうダイアナの夢を。(この時のスローモーションの映像が美しい)。

 

むかし、フーコーの『異常者たち』とかその他の本を読んだ。

それによると、むかーーーしの共同体は精神障害者etcを鷹揚に受け入れていた、とあった。差別されることもなく普通に暮らしにとけ込んでいたと。

こうした人々の囲い込みが始まるのは、えっと、中世だっけ、忘れた。

標準化の時代が始まるわけです。 知のカタログ化です。

 

むかーーーし、ありえないむかしには、スティーヴは単に悪ガキの乱暴者として普通に社会に居場所があったのかもしれない。

 

しかし、現代は誰もスティーヴにありのままの君でいいんだ、と言うことはできない。