ドゥルーズのシネマ

ドゥルーズは『シネマ』という2巻のぶ厚い哲学書を書いている。

 

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その本についての、あれこれやの与太話。というか、デタラメなことを書くしかない。デタラメの駄法螺のトンデモ話!(๑・̑◡・̑๑)

 

『シネマ』はむかーしに眺めたきりで、眺めたんだ、決して、読んだわけではない。

 

たぶん、哲学者がたった一つか二つの概念(と言っていいのどうかわからないが)を説明するのに、モッすごく分厚い本を書くのにはわけがある。

 ……そこが知性の営みのとても美しいところなんだ。とっ、言っておく…。

 

ドゥルーズは、『シネマ』で何を言いたかったのか?

まとめてみる。

 

2巻にわたる、ぶ厚い本だ。たびたび言うが。

 

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 私たちは、固定観念の固まりだ。

そうした縛りを少しでもほどくなら、新しい見方(知)が生まれるかもしれない。

 

「ただ映画を見なさい」

とは、手垢のついた道具を持ち出して、ありきたりの解釈をして満足するな、

ただ見るとは、身体の縛りをゆるめることだ。そうしたまなざしに、新たな地平が広がる。

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彼は、そういうことが言いたかったんじゃないかなあ、とわたしは思うわけだ。

 

 

彼は、ベルクソンを引きながら、見る、ことに迫っていく。

つまり、良い映画には新たな知を拓く可能性があるんだ、と言っているのだと思った。

 

ゴダールは、もろに、既成の物の見方に揺さぶりをかける、刺激的な映画を、あの年令になっても撮っている。

 

 

 

福男匠氏が『シネマ』の指南書を書いておられる。

眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

 

 

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 余談です。(先日のブログの続き)。

 

ムカつく相手とどう付き合うか?(理解しがたい相手と向き合うとき)

 

二人の息子は、タイプが違うので、彼らに伝えた言葉は違います。

兄へ「相手から何を引き出すかは、お前次第」

弟へ「真っさらな心持ちで相対すること」

 

これらの根幹にあるのは、「信頼」というキーワードかと思います。