頭がボーッとしている。この物語にのめり込んでしまったようだ。
新海誠監督、脚本。2011年。
ある日、父の形見の鉱石ラジオから聴こえてきた不思議な唄。
その唄を忘れられない少女アスナは、地下世界アガルタから来たという少年シュンに出会う。2人は心を通わせるも、少年は突然姿を消してしまう。「もう一度あの人に会いたい」そう願うアスナの前にシュンと瓜二つの少年シンと、妻との再会を切望しアガルタを探す教師モリサキが現れる。
そこに開かれるアガルタへの扉。3人はそれぞれの想いを胸に、伝説の地へ旅に出る―。公式サイト
絵柄は、「アルプスの少女ハイジ」だっけ?昔TVで放送されていた、それを思い出した。けれど、新海さんは空がすごい。美しい。
シュンが星空に手を伸ばす。美しい星々に手が重なる。「届きそうだ」と彼は言った。 もう…わたしは切なくて…。
ともかくわたしはこの手の、憧れなのか欲望というべきか、ソレに弱い。
主人公の少女アスナは地下世界アガルタへ入り込むことになる。
教師のモリサキは、地下世界を知る組織について、「空虚なグノーシス主義者ども」と吐き捨てた。
しかし、物語はグノーシス的なのだ。
神が創った良き地下世界と、少女アスナやモリサキが生きている現実、という二元宇宙になっている。
なぜ、新海監督は、モリサキに自分の構成を唾棄させたんだろう…?
地下世界の住人である少年シンは馬を走らせる。
彼を見送る女の子は泣いていた。
馬上のシンがその女の子を一瞥したシーンが忘れられない…。
映画はアスナの日常描写から始まる。
中学2年、13歳の彼女は、同級生からちょっと距離を取っている。
たぶん、彼女は忙し過ぎて同級生が遊ぶ時間と合わないのだろう。仕事で不在が多い母親と二人暮らしのため、家事を半分以上肩代わりしているのかもしれない。
アスナは元気よく走り回り、洗濯をし、買い物をし、料理をして一人でご飯を食べる。
そのアスナが、地下世界で気がつくのだ、自分は寂しかったんだ、と。
彼女の泣くシーンは、元気に動き回る一人ぼっちの彼女の日常が思い起こされて、わたしは可哀想でならない。
若い時なら、自分の何かと重なり過ぎてわぁわぁ泣いていてかもしれない。
これを書くことが誰かの役に立つかもしれないとは到底思えない。のだが、性懲りもなく書く…わたしの心の物語を。
わたしは結婚する前後あたりから、「わたし変だ」と思うようになった。
罪悪感がある。原因はわからない。気がつくと「わたしはものすごく自分が嫌いだ」と思っていた。ゆえに、なのかどうかわからないが、こうあるべき自分というイメージに向かって努力しようとした。
そして気がついたんだ、わたしヘンだ、と。不安で神経がおかしくなっていた。
この乖離が直接的な不安の原因だったと思う。
うさばら氏さんのように、社屋の屋上で苦しくて混乱して泣いていたし、トイレにもよく駆け込んだ。
苦しさは、波のように来ては引いていくの繰り返しで、もう仕事はしない、と決めてから数年後にやっと完全にではないが解放されたような気がしている。
社会的な自意識の仮面がすぽっと抜け落ちた。それが楽になった要因のひとつなのだと思う。
そ、映画の話。
ものすごく好きな物語でしたよ。「君の名は」よりはるかに好きです。