これは

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「これはリンゴではない」という前回の記事に山猫さんがコメントをくださいました。

 

これはリンゴではない - knoriのブログ

気づいたらいつの間にかわたしはわたしになっていた。わたしはわたしという価値観を長い時間をかけて身に付けた。でも、この先またわたしは違うわたしになっていく。別の価値観を持ったわたしに変わっていく…

2019/12/19 07:07

b.hatena.ne.jp

 

山猫さんのコメは、おっしゃる通りで、その通りだと、わたしも思います。

 

そうなんですね…わたしは前回の記事に、“信念”という言葉を使っちゃっていますね。

だから、前回の記事の補足をさせてください。

 

十代の終わり頃、わたしは怖かった。世間を前にしてその寄る辺のなさに恐怖を感じたんですねえ。

二十代の頃、わたしは、自分の中のある小さな感情を大事にすると決めました。世間に対して、わたしがすがるものは、自分のちっぽけな灯りのような感情だけです。

それで良いという信念です。

 

価値観や信念はとても大事なものですが、移り変わるものです。山猫さんのおっしゃるように。

前回の記事で“どうでもいいことにはジャカスカ流される”と書きましたが、これは価値観のことでもあります。わたしにとって、価値観や信念はある意味では、こだわりを持てないものなんです。

 

わたしの中のちっぽけな感情とは、あえて言えば、“美しいもの”、“善きもの”です。それを倫理観といってしまっているのには問題があるんですが。

 

 「だからそれは価値観とどう違うんだ?」とか言わないでくださいね。わたしの中では直感的に違うんです。

 

前回のコメを見ると、女性たちは直感的にわたしが言いたいことを理解してくれてると感じました。けれど、理論派には、チンプンカンプンでしょうねぇ。

そもそも客観性ももちろん普遍性もない、何かの感情、としか言えないものについて、わたしは書いちゃったんだから。 

 

フーコーが管理社会の閉塞感に対する、倫理のような何かについて、悪戦苦闘して書いている本を昔読んだんです。理解するというより、自分に都合の良いように読んで、やっぱ、わたしはこれでよかよか、と思った記憶があります。