かなり 老化してる。わたしのことじゃないよ。いや、わたしはとっくに老化してっけど、フィルム!フィルムがね、老化してた。
マキシムと新妻。👆
フィルムの状態にはすぐ慣れる。めっちゃ面白かったわぁ。
ヒッチコック監督、セルズニック製作、1940年。
ヒッチコック、ハリウッドでの第一作目。アカデミー賞、作品賞受賞。
英国紳士マキシムと出会ったヒロインは彼の後妻として古城マンダレイに住むことになる…。
ヒッチコックをハリウッドに呼び寄せたセルズニックが、この作品に相当口を出したらしい。 ヒッチコックは脚本に参加さてもらってない。
だから、ボート小屋での一連のシーン、最後の方などは、ヒッチコックが書いていたら、スマートになっていたんだろうと思う。
が、面白いことに、セルズニック(嵐が丘を作った人)とのコラボを余儀なくされたおかげで、この作品は…なんつうか、文芸的な厚みが生まれている。
家政婦長のダンヴァース夫人と怯える新妻。
ヒロインは妻を亡くした上流階級の紳士マキシムと出会う。
威圧的な感じの悪い男で、こんなヤツに惚れるなよ、と思う間もなく、彼女は惚れる…わけだ。
若く無防備で無邪気な女は、彼と結婚して、マンダレイと呼ばれる古城にやってくる。
幽玄な、時間に閉じ込められたようなマンダレイ館、格式のある数々の調度品、そして家政婦長のダンヴァース夫人。それらに彼女は威圧されていく。
マキシムの亡くなった妻の名がレベッカなのだが、ダンヴァース夫人は、レベッカが結婚した時、一緒にマンダレイに来た付き人だった。
つまり、亡きレベッカは付き人が一緒について来るような名家の出だった。
マンダレイ館はかつての女主人であったレベッカの気配に満ちている。というより、レベッカの亡霊に支配されている。吉本隆明の「共同幻想」を持ち出せば、マンダレイの住人たちはレベッカという見えない命令、習慣に縛られていると言える。閉塞した空間から漂いだすのは、湿った記憶であり、ありもしないものに囚われた、もはや妄想なのである。
そういう幻想に支配される空間に若い女は入っていく。彼女は追い詰められ、精神も変調をきたしていく。
若い女の怯えて見開かれた眼がシュールな夢に誘っていくのである。
現代人!のわたしとしては、「ったくぅ。覚悟もなしに異なる文化圏に飛び込むなよ!」と立腹するわけだが、若い女は、マキシムの告白でようやっと、自分の誤解に気がつくのだった。
つまり、彼女は、マンダレイの妄想から解き放たれる。
マンダレイの空気感はちょっとした現代の縮図だとも見える。
わたしは、法や政治や宗教、慣習といった普段は気にも留めないものの支配下にある。
その社会生活の中では、共有する空気感のようなものがあるのだ。それを吉本隆明は共同幻想と言ったのだと思う。そしてマンダレイの空間でもある。
共有される空気感のようなものは、夢、幻のごとくだ。
若い女のように、悪い夢、幻から自由になれるのだ。
ホンサキさんが書いてらした、娘に性的虐待をしていた父親が行為を認めたにもかかわらず、裁判で無罪になった出来事。
ダメな法律は変えることが出来るのだ。また、法の解釈も本来は多様性を持っているはずでないのか?新しい判例を作ろう!
見えないものに縛られることはないのだ。
自由になれるはずなんだから。
ホンサキさんのリンクを貼ります。この記事を読んだ後、いろいろ心配していました。書くことはたいへんな事なので。でも、元気なコメントを読んで安心しました。