わたしの身体の奥にコトンと何かが置かれた。映画を見終わってそう思った。
ゴーストのケイシー・アフレック☝️ ネタバレ注意
2017年、デヴィッド・ロウリー監督。
作曲家のケイシーと妻のルーニーは、古い平家に住んでいた。何もない野っ原の少し小高い土地にポツンと建つ家だ。
そのケイシーは交通事故で死んでしまい、ゴーストになる…。
主人公は、シーツを被ったゴーストなんだ。
引っ越しの準備をする妻は、メモを隙間に押込み、上からペンキを塗った。
そして彼女は家を出て行った。
この辺りから、ゴーストの静けさは悲しみとなってわたしに刺さってくる。置いていかれたのは妻の方なのに、見捨てられ感は逆転する。
離れのような小屋があり、窓辺に佇んでいるのは、花柄のシーツを被った女のゴーストだ。
「何をしているの?」
「人を待ってるの。」
「誰を?」
「覚えていない…。」女のゴーストは狼狽えた。
二人は、サイレントで、つまり字幕で会話する。
ケイシーのゴーストは引っ越した妻について行かない。
ゴーストは愛する妻に執着しているわけではないのだ。
ゴーストは家に執着していた。
もっと言えば、時間の記憶…歴史に囚われている。
その同じ場所で彼は、その場所の未来を見て、過去も見るのである。
開拓者の家族が幌馬車から降りて、昼食をとっている。父親がここに家を建てようと言う。
小さな女の子がメモを石の下に隠した。
ゴーストは座って見ていた。
いつの間にか、ゴーストは家の中に座っている。
あまつさえ、時空を超えたゴーストはかつての自分のゴースト姿も見つめるのである。
遠い昔、掘り出そうとした妻のメモに気がついた。
ゴーストはそれを読んだ。
その瞬間、彼は解き放たれた。
ゴーストは何に執着していたのだろう?
彼の執着とは、無になることをあらがう旅だったのかもしれない、とわたしは思う。
彼の業績、彼の歴史は、無になるのだろうか?
妻のメモは、「あなたを忘れない」「愛している」そんなありきたりなものかもしれない。
けれど、この個人的な囁きで、ゴーストは解放された。
充分ではないか?