「 中国TVドラマの暗部をえぐってしまう映画だなぁ」、わたしはまずそう思った。
中国の時代劇に、ゆったりと流れている夫婦愛や家族愛や郷土愛といったものを、わたしは「共同体に対する愛」と言おう。
例えば、ホモサピエンスのドキュメンタリーを見ると、現代人の祖先は集団で助け合って暮らしていたらしい。老人の面倒をみていた痕跡もあった。わたしが思う「共同体の愛」だ。
中国のTVドラマ(史劇やファンタジー)を見ていると、そのような共同体に帰属するやわらかな愛、をわたしは感じる。とても魅力的で気持ちが良い。
ところが、シアーシャ・ローナンの決然とした言葉に、わたしは思わずつぶやいたのだ、「暗部をえぐってくる映画」だと。
アイルランドから単身アメリカに移住したシアーシャは、アイルランドとアメリカの間で、また、母親の望むアイルランド青年とアメリカの青年との間で宙吊りになってしまう。
アメリカの青年は、ロングアイランドに彼女を連れて行き、「ここに家を建てる、会社を作るんだ」と夢を語る。
かたや、アイルランドの彼は、親の言いなりになっている閉塞感を語った。
旧態依然とした故郷と、決してバラ色ではないものの自由と多様性に溢れるブルックリンとの対比でもある。
シアーシャはサッカーでお馴染みのアイルランドのグリーン色をよく着ている。
彼女は、郷土愛もあれば、母に対する愛もある。
因習的な故郷としがらみを脱ぎ捨てるとき、彼女は個人になるのだ。
共同体的な絆は個人によって壊される。
また、生きる力に溢れた個々人は、新たな共同体の可能性を担うものでもある。
この映画は、中国ドラマに心地よさを感じていたわたしと、どうなっているのか全く知らない中国社会の、あるとすれば、その綻びをえぐった…。
シアーシャ・ローナンはこの時、20歳くらいだろうか。
素晴らしい女優だと思った。