相柳について②/リアリティというもの
相柳こと壇健次が「多芸賞」を取った、という話を読みながら、
わたしは、思った、、

👆相柳のペット、毛球。Youtubeにある番外編、毛球の最後には、
もうもう泣いたよ。
壇健次は、上手い役者だけど、
相柳は、演技賞を取れないだろうなぁ、取れるとしたら、従兄役の人だわ、と漠然とそう思った。
おー、わたしは、なんで、そう思ったんだろう?
面白い。
考えてみたよ。
ここはひとつ、彼の弁護をするべきだな。
一応、建前としては、「上手い演技は、嘘っぽくない」ってことを上げておこう。
作家は、たぶん、「山海経」に出てくる黄帝や、その孫の顓頊、神獣の相柳をモチーフにしているかな、と思う。*1
神話の世界なんだけど、従兄役の人は、現実的な感情や、有名な演技者の手法、、といったものをモデルにして、リアリティのある演技だった。定番だね。
で、妖怪の相柳はと言えば、現実性のない、独特の雰囲気を纏っていたんだ。
特に、アクションシーンに顕著にみられると思う。
「相柳の戦いは美しい」と、劇中で語られるんだ。
彼のアクションシーンや、彼の佇まいに、わたしはね、、アニメやマンガの風景を感じるんだ。
もし、別の役者なら、相柳の苦悩や痛みを、現実的なものの模倣で演じて、リアリティのある、評価されやすい演技をしたかもしれないし、アクションシーンは、よくあるアクションになったかもしれない。
しかし、彼が相柳をイメージした時に広がっていたのは、マンガ的な風景だったのではないかと思うのだ。
何ていうか、マンガ的、アニメ的な背景を、彼のダンスのテクニックで表現した、そう言いたい。
マンガ的な心象風景は、偽物だ。
彼は、偽物を模倣し、身体を使って表現するテクを編み出した。
今のところ、評価されやすいのは、現実的なものを模倣する、従兄役の人のような演技だ。
だけど、こんだけマンガやアニメが世界に広がっていることを思うと、彼の現実的なものからの逸脱は面白いと思う。
だって、わたしが、現実的だと思う風景だって、コピーのコピーのコピーのコピーであって、もう元がリアルなものだったかどうか、分からないとこもあるよ。
もし、逸脱には、意味が必要であるならば(ハイデッガー)、わたしが、現実的だと思っているものは、偽であるかもしれず、形骸化した形式に過ぎないのではないか、という問いかけになる、かな?
いつか、、審査員は相柳の演技にリアリティを見るようになるかもしれない、と思ってみたり。
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相柳は、妖怪ではない貴族の遊び人に変幻する。遊び人の時は、現実感のある演技をしていた。ただ、劇中で「自分はいつだって、自分のままだったよ」と姫に答えていて、彼は、頃合いの難しい演技をしていたと思う。