山田洋次と形

例えば、「質の悪い高校で、校舎や庭を美しく整備したところ、学生が品行方正になった」ということがある。つまり、形には力がある。もっとも問題は、ずっとその中にいると、契機を忘れてしまうことだ。

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山田作品には、家を整える女が登場する。

彼女らは、風景のようだ。家の風景に溶け込んでその一部のように見える。なぜなら、女たちも家も、存在しない原風景のようなものだろうと、思うのだ。山田監督が提示しているのは、ある意味で形だけである。

 

たそがれ清兵衛」では、家に独特の存在感がある。汚れて、殺伐とした家が変わっていく。

幼なじみの女が、汚れた家を磨いていく。

しまいには、手入れの行き届いた家が写る。それはわたしの心象風景のような山里の家なのだ。

 

幼なじみである女の人物像は描かれない。ただ、女の行動が写されるだけだ。

「寅さん」のサクラはも同じである。「お兄ちゃん」と呼びながら、泣いたり笑ったりするだけだ。

しかし、どうだろう?二人の女は、豊かなイメージで語られないだろうか?

凛とした良妻賢母だったり、あったかい女だったり、各自のイメージが残るのだ。

 

「小さいおうち」の奥様の人となりは、女中のイメージである。

自己言及的だなぁ、と思う。

 

こうして、映画では、描かれていなかったものを、わたしは投影する。わたしの認識は、もちろん、社会的な規範や、、つまり、常識の上にあるのだ。

これを「テクストを読む」「心象風景に囚われて、風景を見ない」と言うのかもしれない。

偉い学者が、これを批判するのは、自分の認識の枠に囚われるな、ということだと思う。

 

風景自体を見てごらん、地平が開けて、新しい美が見えるかもしれないよ、まあ、偉い人はそう言いたのだろうと思う。

 

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山田監督は「お帰り寅さん」で、ゴクミの力強い存在により、原風景を解体してしまった。

わたしには、寅さんの終焉というより、昭和の「家」の終焉のようだった。