物語とわたしの記憶

わたしは物語にワクワクする。

何故なのかなぁ?

 

わたしの場合、人生経験は茫漠とした記憶の中に埋もれていく。

 

けれど、TVドラマのように、物語で語られる人生は、わたしの絡まった記憶のかけらに、方向と意味を与える。

この情感や感性の再生に、わたしは多分ワクワクしている。

 

わたしは、イメージにも物語を見ている。

例えば、

「九州縹渺録」のオープニングは大好きだ。

雪深い山の中を、馬に乗った人々の隊列が行く。樹氷は厳しい寒さを物語る。

知っているような景色でもあり、何かのエピソードを思い起こしそうになりながら、感情の揺れのままに、わたしは物語の始まりを待つのである。

 

また、映像は「百聞は一見にしかず」だ。扇動的という意味では、演説よりも小説よりも演劇よりも、遥かに力があるだろう。

 

最近、始まったばかりの韓ドラ「この恋は不可抗力」のオープニングは、感激した。

林の中に崩れかけた祈祷小屋がある。降りしきる雨のせいで、木々も小屋も闇夜のように黒い。

屋根に空いた穴から白い空が見える。この穴から滴る雨の粒は、光を透かして美しかった。

どっかで見たような気もするし、TVドラマであっても、さすが、映像界で世界のトップクラスを走る国だなぁ、と、中国時代劇ばっか見ていると、たまの韓ドラの力量に心が躍った。

物語をミステリアスに方向づける、芸術的な映像だった。

 

離人心上」は、わたしの大好きなラブコメだ。中国ドラマの中では、会話主体ではなく映像でも物語る秀逸なドラマだった。

主人公の武将は、兄の死因に執着していた。

キーポイントである敵討ちは短い回想シーンで明らかになる。

5歳くらいの子供は泣いていた。「お前は、もう孤児なんだ」と虐められていた。そこへ、両親の位牌を背負い、疲れ果てた少年(子供の兄)が戦場から戻ってくる。少年は野次馬に向かって「わたしが居る限り、〇〇家は無くならない」というのである。

言葉では伝わりにくいものも、映像では、伝わる。弟にとって、兄の存在の大きさは、視聴者には伝わるのである。

 

この時わたしは、イメージを物語化している。「兄は父親がわりになって弟を慈しんだ」という物語だ。けれど「兄は自分のことで手一杯で、弟を邪険に扱った」という物語を見てとったならどうだろう?復讐は、兄に対する怨恨だった、、という風に、結末はどんでん返しになることも可能なのだ。

 

イメージに真実は無い。しかし、イメージを理解することは物語化することなのだ。

わたしの記憶(物語)は、ドラマの視聴で、再物語化されていく。

 

 

 

 

清越坊の女たち/当家主母

画面は雑多な汚いものまで写し込んでいる。おまけに、ヒロインが、嫉妬に狂った烈女風なのも、全く嫌で、流し見していた。ところが、ヒロインの印象が変わってくる。

ネタバレ注意⚠️

乾隆帝の時代に絹織物の製産地として栄華を誇った蘇州。

織物業の担い手は、ほとんど女性だった。当時の女性は、男性の付属物に過ぎず、売られたり、買われたりする・物・扱いであった。

そんな時代に、織物技術を教える学校を作った翠喜という女性の物語。

 

物語の構成は、時系列をひっくり返すことで明瞭化を図る、それの反復だ。

事態を明らかにする回想シーンは非常に遅れてやってくるため、実は感情移入しずらく、冷静に見ることになる。そしてわたしは、非常に遅れてしみじみと切なさに見舞われる。

 

👆師匠

 

例えば、

「なぁんか、ひっかかる…。」と思うシーンがある。

その後、何話も過ぎてから、回想シーンで、やっと事の次第を呑み込む。

 

ある日、子供の家庭教師をしいる師匠は、どこかしら強引に翠喜絵を教える。

確かに、翠喜は、宝琴のように琴棋書画を身に付けたわけではないだろう、、と、思うものの、彼らの様子がどっか引っかかるのである。

10数話後、

翠喜の旦那さんは、工房で、彼女の見事な鴛鴦の下絵を見つけ、ためつすがめつ眺めながら10代の頃を回想する。

「お前は、翠喜の作品をつまらないと思っているでしょ?」

「そうです、母上。宝琴は、芸術的で、瑞々しい感性を持っている。翠喜は退屈な作品しか作れない」

「それは違う。いつか、翠喜は職人芸を極める。その時、自由な感性が花開いて、彼女は大輪の花を咲かせる。お前がそのきっかけを作ってやりなさい。」

現在時制に戻り、旦那さんは「母上の言った意味が、今ようやっと分かったよ」と呟くのである。

 

つまり、翠喜を愛した師匠こそが、怖気付いていた彼女の感性を解き放ったのだ。

十数話たって、ようよう明らかになるのである。

それぞれのシーンは、それ自体で成立している。観客は繋げて見ても、繋げなくてもどっちでも良いようになっていると思う。

 

👆旦那さんと宝琴

また、このドラマには、テーマに繋がる大きなサブテキストが2つある。

 

中盤に差し掛かかって分かってくる、一つ目、

翠喜は、家のために、犠牲になったということだ。大奥様から才能を賞賛され、大事にされていても、所詮は拾われた娘なのだ。

冒頭シーンの彼女の大暴れは、旦那さんの罪悪感を引き出すためだ。翠喜は、家業にしがみついている。

 

終盤になって分かってくる、二つ目、家業に執着した翠喜の動機。

表面で語られるのは、「織物の技術を広めたい」という翠喜の少女時代の夢だけだ。

孤児だった翠喜や妓楼に売られた宝琴は、運良く助けられたが、

翠喜は、自分や宝琴のような人生が壊れかけている女たちに、生きるすべを教えたかった。

その実現のために、組合を作り、後ろ盾の無い女でも、機織りで安定して生活できる環境を作ったのだ。

彼女の作った学校に、夫に死なれ、売られてしまった妻が娘を連れてやってきた。

自分が売られた先では、「小さな子供はいらないと言われた」と言う。

名前を聞かれた子供は「お姉ちゃん」と答えた。

とても小さな女の子だった。

 

心に残ったシーン。

翠喜が作ってくれた巾着を、腰に吊るし、嬉しそうな師匠。

切ない……。

 

翠喜の離婚の決意を知った、旦那さんと宝琴。二人は、翠喜に罪悪感を持っている。

後ろめたそうな共犯者のような二人を前に、間抜けなお邪魔虫でしかない翠喜は晴々としている。

なんという切ないアイロニーだろう。

 

 

 

瑠璃/美少女戦士

男性性、女性性という言葉、考え方がある。ネットによれば「一人の人間の中にある二つの性質」ということだ。

左から👆璇璣(美少女戦士)司鳳 ネタバレ注意❣️

 

女性性は「受容、共感、直感など」、男性性は「責任感、粘り強さ、決断力など」と分類される。昔から、「女らしさ」「男らしさ」とよばれてきた。

 

…なんでこんな事を書いているのか、というと、ラスト数話の衝撃で、わたしの頭の中は、映画「インセプション」のワンシーンの如く、物語がガタガタと再構築されていったわけ。

 

初めは、よくある面白い中国ファンタジーだと思いながら見ていた。

中国は、サドマゾっぽい快楽をしれっと忍び込ませる。「上手いなぁ」と感心していた。

ところがところが、だった。以下はたぶん、脚本家、演出家の頭の中にあった問題意識だと思う。

 

美少女戦士に変身する璇璣と、彼女を囲む二人の男性。

彼女を愛している司鳳と、天界の多分No.2の地位にある、とんでもない男*1帝君

 

帝君は、長年の知己である妖族の武神(男)を騙して殺し、美少女戦士、璇璣に作り変えた。彼は、平和を実現するためであったこと、正しかったことをNo.1天帝に何としても証明したかった。

 

後半、妖族の武神は蘇る。当然、「よくも女にしたな」と言うだろうとわたしは思っていた。ところが彼は、決してそれを言わない、彼は、傀儡にされたことを怒るのである。

人に女らしさ、男らしさは両方存在しているもので、何か、男性性、女性性、、なんて言うか、男女差というものから、非常に自由なのだった。

 

その妖族の武神に、付き従っていた司鳳は、花嫁のような衣装で、髪飾りも赤い。

死んだ司鳳を生き返らせた武神は、そっと彼の頬に手を伸ばす。

物語はラストに来て、堂々たる、いや、秘めやかに性的指向の自由さも漂わせた。

 

また、このドラマは、仕事と私生活との対立も描いている。つまり、ものすごく中国ドラマには多いんだけど、公的な使命と愛の対立である。自由と全体主義の相剋。

限りなく自由な個人生活は、公共精神を忘れさせる。

 

しかし、公共心が欠けていると、璇璣の姉にストーカーしている鳥童のようになってしまう。彼は愛に執着するあまり、自分の利益しか考えない。他人はどうでも良いのだ。

 

司鳳は、鳥童や帝君に比べると、現代では理想的な男になる。

彼は仲間のために責任を果たし、三界の平和を守ろうとする。そして彼は愛する璇璣を犠牲にしない。

彼はプライベートと仕事のバランスを取れる人なんだ。

 

制御できない戦神という男性性を持つ璇璣は、天界No. 1の天帝から、お前に天命はないと言われる。

つまり、天界に戻って、三界を守っても良いし、人間界でも、妖界に行っても良いと。

 

三年後、プライベートライフ満喫の璇璣は、育児を司鳳に押し付け、酒を飲みながらニヤリとする。「人間界も悪くないわねぇ」。

 

多分、璇璣たちは、自分の中の男性性をどう活かしていくのか考え始めた。

 

*1:昔はこういう男性性の強い、私事を顧みない男が社会を発展させてきたんだろう。天帝の哀惜の涙は、彼の力を惜しむものだったと思う。