りんごの木の花

 最近、夢を覚えていない。せいぜいが夢の中で、「あれ。この夢は何遍も見ている…」と夢の中で不思議がって目が覚める。

 

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下はリンゴの木の花。蕾が開花すると、淡い桃色になる。とてもとても可愛い花。

 

でも、昨日の夢は覚えていた。

 

わたしは楽しかった。下の子のことはわたしの頭からすっかり抜け落ちていた。

下の子が居ないことにハッとする。もう下の子は死んだのではないかと気が気ではない。

わたしは、ステーションの待合室に下の子を探しにいく。もうダメだと思っているが、下の子は、人がぎっちり腰掛けている長いベンチに居た。

下の子は、1、2歳だ。壁を向いてたち膝をしている。拗ねているのかなと思う。彼は、グリーンのスタジャンを着ている。

わたしは名前を呼んだ。振り向いた彼は我が子だった。

彼を抱き上げると、嬉しさで一杯になった。彼を抱いている感覚がわたしの体の隅々にある。

周りの人が驚いているので、お礼を言わなくちゃ、と思うが、わたしは子供を抱きかかえたまま、無言でそこを出た。

その時、わたしは、あぁ、これは夢なんだと気がついた。

そして、グリーンのスタジャンを着ていたのは、上の子のはずで、下の子ではない、と思う。

わたしは、子供に対して何かやましさを抱えているんだな、と考える。けれど、この子は、どっちなんだろう?上の子なのか、下の子なのか、一体どっちだろう?

この子は誰なんだろう?

わたしは、そこで、目が覚めた。

 

 

BORDER/物語の物語

日本ドラマの「BORDERボーダー」をみたよ。

わたしはどうしたって不思議で不思議で。ここ最近、ずっと囚われている、中国ドラマが何故、あんなにも鷹揚な豊かさを持った物語を生み出すのか?

 

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数十年前に読んだ、もう古い記憶、使い物にならないかもしれない道具を引っ張り出して、(ボーダーから派生する)印象をまとめる。

わたしが暮らすこの社会は、とうの昔に、権威とか絶対的なものが崩れた。いろんな言い方があるだろうが、意味を見失って寄るべない感じだ。

 

物語を駆動する感情ってなんだろう?恐怖や畏敬、不条理、葛藤…?

ともかく、現在、不条理さに葛藤するような大きな物語は成立が難しい。

 

この「ボーダー」というドラマでは、刑事である主人公が殺人の原因にコミットしていく。

原因は、「羅生門」のように真実とは別のところのものをそれぞれの人物に物語らせるものだ。原因を語れば、それは物語になる。

 

韓ドラの「梨奏院クラス」では、悪としての権力があった。

 例えば社会批判が見出す権力という怪物、例えば正義感の横には殺人者。ある意味で、そういう所(原因をいじること)にしかもう物語はない。

 

おまけで言えば、裁判は結果と証拠がすべてである(情状酌量もあるけど)。懸命な物語の排除。その手段がときどき融通の効かないように見える法律だ。

 

拠り所となる意味や意義といったものがフラットになってしまった…極端に言っちゃえば、「どっちもどっちだよねぇ」みたいな、「ボーダー」というドラマにように、善と悪の境界をきっちり引けない感じ。

どっちでも良いのなら、どう転んでも意味がないのなら、物語は枯渇する。

切り取られた出来事、ピンポイントの批判、それが現代的な物語。

かくして、日本ドラマ、韓ドラ、洋ドラマも、芸術的な作品は時折出てくるが、いつも似たり寄ったりのお話ばかり、または、「ボーダー」のように自己言及的に悪を受け入れる闇に目を凝らすお話。

 

もちろん、中国ドラマもWEB小説が原作の現代風作りのものがあるけど、それでも、一味も二味も違う。

権威主義的なのではないか、と想像される中国ではあるけど、それだけが物語の豊かさの理由とは思えない。

良い中国ドラマには根幹に「美」がある。倫理的なものと近しい美を感じる。

 

とかく、今の世の中、原因追及に血道を上げる風潮がないかい?

そこに転がっているのは、不毛ですらある曖昧なもの。芸術の分野でこれを味わうのは、ちょいと飽きた。

 

 

中国ドラマの物語性の豊かさ、不思議でならない。まっ、原因に縛られてるわたしなのよ。

 

 

春−コロナの意志カード

 ただ、生きている、わたしは。シベリア桜が咲いてレンギョウが咲いた。

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わたしは社会の役にもたっていないし、ちょっと幸せにただ生きているだけの人間なんだ。 

愛読しているnanigotoさん👇の記事を読んで、そういうことを思った。

 

www.nanigoto.net

 

 「医療崩壊が起こった際、高齢者などが若者へ高度医療を譲る意思表示する」ということらしい。

 

海外では、コロナ崩壊の際に、高齢者が若者に譲った、ということもあったらしい。

キリスト教的な愛がバックボーンにあるのかもしれない。

 

洋画では結構よくあるシーンで、主人公が救急テントに運び込まれる。薬は、あと一本しかない。その時、騒ぎを見ていた年寄りが「あの若者に、やってくれ。わたしはもういい。」と、自分も瀕死であるのに譲るのだ。

今までは「ああ、よかった」と、主人公が助かって喜んでいた。

 

けれど、この記事の意志カードについては、何か哀しくて、自発的−姥捨山だな、と思ってしまう。

映画の年寄りの譲る決断とはどういう心境だろう?

それは例えば、50歳の人が30歳に薬を譲る、30歳が10歳に譲る、突き詰めれば、それらの場合と、感情的には変わらないのではないか?

 

もちろん、高齢者は、50歳や30歳とは条件が違う。

十分に生きた。

わたしのように、もう役に立たない、と思うのだろうか?

 

緊急の現場で、医者に−高齢者から呼吸器を外す−というような可哀想な選択をさせるくらいなら、意志カードを持とう、という気持ちはわかる。

 

昔わたしは、30歳になったら死のう、と思っていた。その時のわたしにとって、30歳は途方もない年寄りだった。

 

ぽっかぽかの春だ。

春の息吹きの美しいこと…。