カウンターバーに友人と行った。
帰りがけ、コーヒーを頼んだら、コーヒーカップに入った醤油スープが出てきた。
恐る恐る、、何せ私たちはまだ若かった、女性のバーテンダーに間違えているのではないか、と言った。
彼女は、ことの次第を理解すると、慌てるでもなく、恐縮するでもなく、
爆笑した…。
という事を、わたしはコーヒーを飲みながら思い出した。
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草刈りで、疲れた。
リンゴのつぼみとユキヤナギ。
「花小厨」を見たとき、しばらくの間、中華料理ばっか作ってた。さすがに飽きて打ち止めは、トンポーロウ風、豚の角煮だった。豚肉の下ごしらえをきちんとすれば、簡単に美味しい角煮が出来る。圧力鍋で15分である。いつなら豚の角煮には、マントウを作る。でも時間がなかったから、カルディで、台湾のネギもち(冷凍食品)を買った。
和風のディナー皿に、角煮を盛り付けグリーンをあしらう。つまり、脇役になりがちな角煮に、メインディッシュの格をつける。あとは、中華風の野菜炒めや中華風海老スープ。そして、ネギもち。はるばる台湾からやってきた冷凍食品、ネギもちは、甘辛い角煮にも、野菜炒めにもスープにも、驚くほど、よく合った。次の日、カルディに行った時は、もう売り切れてた!
え。。あ、
そんなノリで見た「みをつくし料理帖」。わたしは原作もTVドラマも知らなかった。
2020年、角川春樹監督
「花小厨」のように料理の醍醐味を味わえるような作品ではなくて、ふたりの女の子の「情(人情)」にまつわる話だった。んでね、よかったよぉ!
ネタバレ注意!
ノエちゃんは大店のお嬢さん、ミヲちゃんは職人の娘。ふたりは幼馴染だった。大洪水の後、浮浪児となったノエちゃんは吉原に売られ、ミヲちゃんは料理屋の女将に拾われていた。ふたりは江戸で出逢うことになる。
美術セットが好きだわぁと、のんびり見ていたら、だんだんと、ふたりの女の子が健気で健気で、もうもう可愛くて、いじらしくてたまらなくなってきた。
圧巻だったのは、2階の座敷から始まる一連の流れだ。
ミヲは客の清右衛門に談判をしていた。
そのとき、「おまえがノエを身請けすればいい。料理人として成功すれば出来る。」と言われる。それを、、小松原さまが聞いていた。ミヲと小松原さまには、互いに淡い恋心がある。
去っていった小松原さまを追いかけたミヲ。もうもう、ミヲを見ながらアワアワと涙を流してたら、小松原さまにカメラが寄った。うわぁ、小松原さま、これは切ない!
しかし、これは、ほとんど一瞬の出来事で、カメラは実に淡々とその場を収めた。
その後、女将さんに抱きついたミヲが「もう小松原さまはここに来ない」と号泣した。
淡々とした描写なのは、ミヲの恋心よりも、ミヲの決意を表現したかったからだと思う。
ミヲは、ノエをあきらめることが出来ない。小松原さまとの結婚は夢だったのだ。
出来ないよなぁ。人情だもん、とわたしも涙ぐむ。
わたしに言わせれば、「人情≒心の赴くままに」だ。
「心の赴くままに」行けば良い、そこに道は開ける。
情が道を作る、この映画の表現は、そう言っている。
道を阻むのは情ではないのだ。
何ていうか、この映画見て「あぁ。日本だなぁ」と思った。監督も古い人だし、わたしも古い。
今の若い人は、情ってどう思っているのかなぁ?
…中国のように「情と仕事」の対立なんてことはないよな。。
「男は政治を志してなんぼだ」
ってなことが、人生の既定路線だったらどうする?
そしてその既定に対抗する「なにもいらない。愛している」という女の情。
なにせ、「志と情」を対立軸とする物語が、多いんだわ、中国時代劇ドラマには。
まぁ。。この儒教的な「政治を志せ」みたいな固定観念と、「女の愛」をなんで対立させるの?ってわたしは不思議に思ってた。
でも、「情」をアレゴリーだと考えればモヤモヤも解ける。
「情」は、「自由に好きに生きたい」ってことを象徴しているんだなぁ、と。。
つまり、老荘思想と儒教なんだ。思想哲学には理解が及ばないけど、単純に、「自由と規律」「破壊と常識」などと広げて考えても良いかな?と思う。
何故、執拗に物語に入れてくるのか、そこら辺は分からない。。
「大明皇妃」はこの対立軸から無関係かと思っていたら、なんと、ラストに入れてきた。
(「大明皇妃」は、朱瞻基が死んじゃって、見るのをやめてたんだけど、「後半も、面白かったよ」と言われて見たんだ。)
この皇妃は、朱瞻基に愛され、いつも政治権力の中枢にいる、志に生きた女性だった。
それが、最後の最後、徐浜さんから「自由に生きよう。旅に出るぞ」って言われて、、二人で船に乗ってしまう。
必要無いどころか、お墓で待ってる朱瞻基、かわいそう。。コオロギも鳴いてた。
何故入れる?
まぁ、厳密に言えば、宮廷でゴーンゴーンって鐘が鳴っていたので、連れ出される前に亡くなったんだと思う。
船上のふたりは、今際の際の夢だったんだろう。