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清越坊の女たち/当家主母

画面は雑多な汚いものまで写し込んでいる。おまけに、ヒロインが、嫉妬に狂った烈女風なのも、全く嫌で、流し見していた。ところが、ヒロインの印象が変わってくる。

ネタバレ注意⚠️

乾隆帝の時代に絹織物の製産地として栄華を誇った蘇州。

織物業の担い手は、ほとんど女性だった。当時の女性は、男性の付属物に過ぎず、売られたり、買われたりする・物・扱いであった。

そんな時代に、織物技術を教える学校を作った翠喜という女性の物語。

 

物語の構成は、時系列をひっくり返すことで明瞭化を図る、それの反復だ。

事態を明らかにする回想シーンは非常に遅れてやってくるため、実は感情移入しずらく、冷静に見ることになる。そしてわたしは、非常に遅れてしみじみと切なさに見舞われる。

 

👆師匠

 

例えば、

「なぁんか、ひっかかる…。」と思うシーンがある。

その後、何話も過ぎてから、回想シーンで、やっと事の次第を呑み込む。

 

ある日、子供の家庭教師をしいる師匠は、どこかしら強引に翠喜絵を教える。

確かに、翠喜は、宝琴のように琴棋書画を身に付けたわけではないだろう、、と、思うものの、彼らの様子がどっか引っかかるのである。

10数話後、

翠喜の旦那さんは、工房で、彼女の見事な鴛鴦の下絵を見つけ、ためつすがめつ眺めながら10代の頃を回想する。

「お前は、翠喜の作品をつまらないと思っているでしょ?」

「そうです、母上。宝琴は、芸術的で、瑞々しい感性を持っている。翠喜は退屈な作品しか作れない」

「それは違う。いつか、翠喜は職人芸を極める。その時、自由な感性が花開いて、彼女は大輪の花を咲かせる。お前がそのきっかけを作ってやりなさい。」

現在時制に戻り、旦那さんは「母上の言った意味が、今ようやっと分かったよ」と呟くのである。

 

つまり、翠喜を愛した師匠こそが、怖気付いていた彼女の感性を解き放ったのだ。

十数話たって、ようよう明らかになるのである。

それぞれのシーンは、それ自体で成立している。観客は繋げて見ても、繋げなくてもどっちでも良いようになっていると思う。

 

👆旦那さんと宝琴

また、このドラマには、テーマに繋がる大きなサブテキストが2つある。

 

中盤に差し掛かかって分かってくる、一つ目、

翠喜は、家のために、犠牲になったということだ。大奥様から才能を賞賛され、大事にされていても、所詮は拾われた娘なのだ。

冒頭シーンの彼女の大暴れは、旦那さんの罪悪感を引き出すためだ。翠喜は、家業にしがみついている。

 

終盤になって分かってくる、二つ目、家業に執着した翠喜の動機。

表面で語られるのは、「織物の技術を広めたい」という翠喜の少女時代の夢だけだ。

孤児だった翠喜や妓楼に売られた宝琴は、運良く助けられたが、

翠喜は、自分や宝琴のような人生が壊れかけている女たちに、生きるすべを教えたかった。

その実現のために、組合を作り、後ろ盾の無い女でも、機織りで安定して生活できる環境を作ったのだ。

彼女の作った学校に、夫に死なれ、売られてしまった妻が娘を連れてやってきた。

自分が売られた先では、「小さな子供はいらないと言われた」と言う。

名前を聞かれた子供は「お姉ちゃん」と答えた。

とても小さな女の子だった。

 

心に残ったシーン。

翠喜が作ってくれた巾着を、腰に吊るし、嬉しそうな師匠。

切ない……。

 

翠喜の離婚の決意を知った、旦那さんと宝琴。二人は、翠喜に罪悪感を持っている。

後ろめたそうな共犯者のような二人を前に、間抜けなお邪魔虫でしかない翠喜は晴々としている。

なんという切ないアイロニーだろう。