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瑠璃/美少女戦士

男性性、女性性という言葉、考え方がある。ネットによれば「一人の人間の中にある二つの性質」ということだ。

左から👆璇璣(美少女戦士)司鳳 ネタバレ注意❣️

 

女性性は「受容、共感、直感など」、男性性は「責任感、粘り強さ、決断力など」と分類される。昔から、「女らしさ」「男らしさ」とよばれてきた。

 

…なんでこんな事を書いているのか、というと、ラスト数話の衝撃で、わたしの頭の中は、映画「インセプション」のワンシーンの如く、物語がガタガタと再構築されていったわけ。

 

初めは、よくある面白い中国ファンタジーだと思いながら見ていた。

中国は、サドマゾっぽい快楽をしれっと忍び込ませる。「上手いなぁ」と感心していた。

ところがところが、だった。以下はたぶん、脚本家、演出家の頭の中にあった問題意識だと思う。

 

美少女戦士に変身する璇璣と、彼女を囲む二人の男性。

彼女を愛している司鳳と、天界の多分No.2の地位にある、とんでもない男*1帝君

 

帝君は、長年の知己である妖族の武神(男)を騙して殺し、美少女戦士、璇璣に作り変えた。彼は、平和を実現するためであったこと、正しかったことをNo.1天帝に何としても証明したかった。

 

後半、妖族の武神は蘇る。当然、「よくも女にしたな」と言うだろうとわたしは思っていた。ところが彼は、決してそれを言わない、彼は、傀儡にされたことを怒るのである。

人に女らしさ、男らしさは両方存在しているもので、何か、男性性、女性性、、なんて言うか、男女差というものから、非常に自由なのだった。

 

その妖族の武神に、付き従っていた司鳳は、花嫁のような衣装で、髪飾りも赤い。

死んだ司鳳を生き返らせた武神は、そっと彼の頬に手を伸ばす。

物語はラストに来て、堂々たる、いや、秘めやかに性的指向の自由さも漂わせた。

 

また、このドラマは、仕事と私生活との対立も描いている。つまり、ものすごく中国ドラマには多いんだけど、公的な使命と愛の対立である。自由と全体主義の相剋。

限りなく自由な個人生活は、公共精神を忘れさせる。

 

しかし、公共心が欠けていると、璇璣の姉にストーカーしている鳥童のようになってしまう。彼は愛に執着するあまり、自分の利益しか考えない。他人はどうでも良いのだ。

 

司鳳は、鳥童や帝君に比べると、現代では理想的な男になる。

彼は仲間のために責任を果たし、三界の平和を守ろうとする。そして彼は愛する璇璣を犠牲にしない。

彼はプライベートと仕事のバランスを取れる人なんだ。

 

制御できない戦神という男性性を持つ璇璣は、天界No. 1の天帝から、お前に天命はないと言われる。

つまり、天界に戻って、三界を守っても良いし、人間界でも、妖界に行っても良いと。

 

三年後、プライベートライフ満喫の璇璣は、育児を司鳳に押し付け、酒を飲みながらニヤリとする。「人間界も悪くないわねぇ」。

 

多分、璇璣たちは、自分の中の男性性をどう活かしていくのか考え始めた。

 

*1:昔はこういう男性性の強い、私事を顧みない男が社会を発展させてきたんだろう。天帝の哀惜の涙は、彼の力を惜しむものだったと思う。