がっでむ、自己肯定

わたしは自分が嫌いだった。嫌いだった、ときがあった。

 

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 自分の体験に基づいて書くのだけど、間違いだらけかもしれない。

これは、そういうお話。

 

誰それは、「自分を持っている」、よく聞くでしょ?

この「自分がある」ってことは、アイデンティティのことだと思う。

アイデンティティ(自己同一性)が無いとどうなるか?

それはもう、決められないし、選べない。自分が無いのだから。

 

わたしは、このアイデンティティが粉々に砕け散った、ときがある。

わたしのイメージで言ってしまえば、自己像にくっつけてきた、価値観とかスキルとか、うまく言えないけど、いろんなものがバラバラと落ちた感じ。

 

時間をかけながら、少しずつ少しずつ、自己像を組み立て直す。変化した何かが加わることもあるだろうし、何かを捨てることもあるだろう。

 

だから、こいうときの自己肯定感なんて、ゼッロ。ゼロどころか地獄であがいている。

それでも少しずつ少しずつ足場が出来て、でも時たま、あ。来るかも、なじみ深い苦しさが。という予感があったりする。けどここまで来ると、随分、楽になっている。

 

ところで、なんでアイデンティティが崩れたかというと、それは、たぶん、家族や学校や仕事、社会、等の何かと葛藤を起こして、持ちこたえられなかったから。だと思う。

 

だから、自己肯定感がゼロだ、なんてのは壊れた自己像の結果、または葛藤の結果、生じたので、もういちど、なんらかの関係の中で、再獲得していかなければならない。

これはね、意外に思うかもだけど、一歩踏み出すことさえできれば、もうそれだけでいいんだよ。

人って、信頼に足る存在なんだ。わたしはそう思う。

 

今、わたしはちゃんと自分が好きだけど、知らない間にこうなってた。

 

 わたし、自己肯定だとか、どうでもいいと思うんだ。ついでに言えば、承認欲求も。

うーん。ネットでこれらの言葉の扱われ方に違和感があるというか、なんかすごくへん!うまく言えないけど…。

 

ただ、原因に拘ることもできない。だって原因って本当のところは多分よく分からない。

原因というものは物語なんだと思う。原因を語っているつもりでも、それは多分、物語っている。

 

案外、民話とか神話とかって、人の普遍的な葛藤から生まれてきたのじゃない?まあ、物語って必要なんだと思う。