ぼくはとても面白いと思ったんだ、君の言うことを。君が書け、と言うからその事を書こうと思う。
君は「ドクター・フー」の連れの仲間たちが「映画的経験」そのものを表現しているみたいだと書いていた。
そこでぼくは、映画を見るという、ぼく達の経験について考えてみたんだ。
現実では、 何らかの状況を見た、ぼくや君は、選択をして行動する。
ところが映画的経験では、自分ならそこへは行かない、と思ったにしても、もちろん、身体は動かない。
けれど、映像は状況や出来事を表現しながら、何かを、ぼくに落とし込んでいく。
それは記憶なのだが、ベルクソンだったろうか、「記憶は感情である」といったのは。
感情は、判断だし、選択の方向を定め、信念に展開されもする。
映画を見終わったぼくは、そうした、なにともつかぬ感情の束によって、思考することへと導かれることもある。
これは(映画的経験は)、現実的経験から、身体を除いたものであると言えないか?
だから、映画を見るということは、ある種の「経験」には違いないんだ。
そしてこの新しい映像芸術は面白い契機を孕んでいる。思考を促すイメージの力がある。
よくネットの映画感想で、「わけがわからなかった」「難しくて意味がわからない」などという感想を君は見るだろ?
あれは、正解があると思っているんだ。真理があると思うから、自分で考える事を止めているのか、自分の考えを言わないのか、どちらかだろう。
ぼくは思うんだ。正解なんて気にしなくて良いと。思考するということは、ハイリスクハイリターンだ。
映画の隠れた醍醐味なんだと。
ぼくは君が「ドクター・フー」を好きな理由がわかる。
本来、子供向けのドラマだけに、ドクターの連れたちは、シーズンを通して成長していく。そして終わりには、ドクターから、地球の存亡に関わる決断を迫られるんだ。
一見、笑ってしまうようなシーンではあるけど、子供たちは、世界に対する愛を、信じる事を、得るはずだ。
世界は賭けるに値する事を。
評判のよくない「15時17分、パリ行き」も、君は青年が屈託のない顔でテロ犯に突っ込んでいくことに、感動していたろ?
世界は賭けるに値する事を知っていた若者に感動していた。もちろん、テロ犯の銃がカチッと言わず、発射されていたら、ヒーローはおらず、テロは成功していた。
そこまで見せてしまう監督は、子供に見せられるように倫理委員会と交渉したらしいが、そこは君が言うようにドクターのほうがまさっていたね。ぼくはここ、笑っているよ。
確かに、世界を信じられるから、思考が始まるんだ。
普段のぼくたちは、常識的に考える。仕事で、革命的な思考なんてしているわけにはいかない。
でもイメージから飛躍する思考はどんだけ壊れかけていようが、しっちゃかめっちゃかでも良いんだ。
ぼくたちは、イメージ表現という新しい芸術を手に入れたばかりなんだ。