「存在感のある役者さんだね」それは、時々、見かける言葉。
そうか、では存在感がある、とはどういうこと?
ユリア・ アウグ↑
「エカテリーナ」のシーズン1を見終わった。
エカテリーナはロマノフ家に嫁ぐのだが、18世紀の位の高い女たちは、政治的な道具でしかなく、貴族間で売り買いされるような状態で、もちろん何の力も持っていなかった。
しかし、ロマノフ家においては後継者選びに難渋している隙にエリザヴェータが赤ん坊の皇帝から王位を奪った。
後に、エリザヴェータ女帝(ユリア・アウグ )と呼ばれる。
闊歩するエリザヴェータは、エカテリーナに言う「私たちは女の身体に男の心が入っているのよ」
胸元を広く開けたドレスの裾が翻り、二人の女のパワーが踊る。
女帝はシーズンの終わりには亡くなる。
そしてシーズン2を2話ほど見て、女帝を演じたユリア・アウグの存在感の大きさに愕然としてしまう。ドラマは彼女を欠いて明らかに失速していた。
私はこれと同じ状況に陥っている映画を見たことがある。
「デスノート」の3作目「エル チェンジ ザ ワールドル」である。この3作目は藤原竜也が出ていなかった。
松山ケンイチに人気が出て3作目は彼の主演だった。松山ケンイチは別に悪くはなかったが、作品の出来は藤原の不在を感じさせるものだった。
ユリアと藤原、二人は作品に格をもたらす。二人がいない作品から抜け落ちたものである。また、二人は相手役を引き立てる。
ユリアがいないエカテリーナは小娘のようだし、松山はオーラを失った。
藤原は演劇の出身だ。演劇は今この目の前でおきる一回限りの出来事だ。
役者の身体には劇の進行とともに時間の傷痕がつく、それは出来事の引っ掻き傷、歴史。それは劇の終演まで継続する。
しかし映画は脈絡のない細切れの撮影となる。シーンやショットをソツなくこなす役者たち。しかし演劇的な身体の継続性は失われている。
藤原は、映画に演劇性を融合させるのだ。彼は、細切れの撮影の中で継続性を失わない。それが作品における格となり、存在感の強さとなって現れる。
ユリアにも同じものを感じるが、彼女が演劇畑なのかどうかわからない。また、演劇出身者に特有の才能だとは言えない。
…以上が存在感、格の説明になっているかどうかわからないし、また、ここまで読み続けてくれた人がいるのかどうかすら、はなはだ疑問。
日本のドラマの前身は演劇的だった。初期のドラマは生放送である。
映画とは出自が違うと言えるが、撮影技術等、大きな違いはいまではあまりないのではないか。
大きく違うのは、ドラマは説話論的には、例えば、小津映画が「嫁に行く娘と父が旅行した」だとしたら、ドラマは「嫁に行く娘が駆け落ち、相手は父の友人」などのように、来週への継続のためにドラマチックである。多分にドラマチックのきらいがある。
が、アーティステックなドラマもたくさんあり、「トゥルー・ディテクティヴ」などのように説話的な構造が貧しく、映画的なゆったりとした時間が流れているものがある。
台詞の多さというものは若干、ドラマに軍配があがるかもしれない。
台詞の持つ音のトーンは絶大な力があると思われる。
「牯嶺街少年殺人事件」において、少年が雑貨屋の叔父さんを助けるシーン。
「叔父さん、叔父さん、だいじょうぶかい?」闇の中で少年の声だけが聞こえるのだが、彼の声のトーンは全てを語ってしまう。彼が平凡な一人の良き少年に過ぎないことを。滑稽味と暖かさのある彼の声のトーンは、直前の煉瓦を持つ手、人を付け回す不気味さをあっという間にひっくり返す。そこには彼の本来の姿、本質を露呈させるトーンがある。
映画が持つ豊かな映像。美しさのあまり映画の時間を揺蕩う。イメージは心を揺さぶり、長く記憶に残る。
しかし、役者の声のトーンは映像の全てを壊し全てを晒す力があるのだ。
題名は忘れたが「ベラスケス…」という彼に殺された亡霊の声はくだらなかった映画を組み立て直してしまう。竹内結子の「今会いに行きます」という声のトーンはその一言によって映画の主題を語ってしまう。
TVドラマは面白い。なんとしても味方をしたかった…。
以上はわたしの「役者とドラマと映画」についての物語です。