「接吻」っていう日本映画がある。小池栄子が主演していた。
ボソボソと日常の家事をこなしていた彼女が、ふとTVに釘付けになる。
連続殺人犯であるトヨエツが連行されて行くところが写し出されていた。
あぁ、やばいなぁ…とわたしは思う。彼女はその瞬間、サイコパスに惚れるんだ。
そういう映画なんだけど、出来事の断片が煌めいているような映画だった。
つまり、これら1連のカット割りによって、小池栄子がトヨエツを見つめるショットが、幾千の闇を物語るわけよ。
カット割りが意味を生む、ってのは、映画の醍醐味だよなぁ、とか思う。
でもさ、中国映画TVドラマを見てると、醍醐味?カット割り?そんな事はどうでもいい!って、なるのよねぇ。
「初恋のきた道」むかしハマって、チャン・ツィイーやイーモウ監督の作品を探した。
何ていうか、中国映画TVドラマって、日本映画や韓国映画と別次元にある、って感じるんだ。何なんだろうな…。
そしてそれにハマるんだ。
鷹揚でデカイ…!
商業主義的な汚染が少ない、とか、権威主義的なものが品性を保っているとか、そういうことより、やっぱ、中国の長い歴史文化の懐の深さ、なのかなぁ。
美しい秋の中を女の子が歩いている…。
谷間の日々の暮らし。女の子の教師に対するあこがれ。
そうした風情が、わたしの日々を揺さぶる。
それだけの映画だが、わたしはハマるのだ。
ハマると、心に穴があく。
心の穴は他のものを撥ねつける…。
そういう時は、塞がるのを待とう。忘れてしまうまで。