ガジェットの海とネットの文章

SF的なガジェットの海を漂っていました…。 

 

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何回目かなあ、スタトレの「ディープスペースナイン」「ヴォイジャー」を見ていました。

 

元祖スタトレのカーク船長とスポックは現代の地球にタイムトラベルしたけど、わたしは好きじゃないのよ。

ヴォイジャー」も現代の地球にタイムスリップする回があって、やっぱり好きじゃないのね!

 

もうすっごい違和感!

すっごい嘘っぽい感じ!

…現代の風景がぁ。

 

わかる?現在のリアルな景色、ファッションが嘘っぽくてたまらんわけよォ!

わかる?西海岸かどこかの現在の都市。綺麗に整備された街並み。宇宙人がいることも、転送装置があることも、宇宙に探検に出かけていることも、なあああああああんにも知らない現在の人々!

リアルな街並みの嘘っぽさってなに!

 

まあね…おぉっと、って思いますよね。

ドラマのディデールに溺れ切っているわけですよね、わたしはぁ。

 

これって、わたし、逃避してんの?これって逃避なの?!

(今度は「新スタトレ」を見るつもりです)。

 

まあね、以上はわたしの近況でした。

 

 

 猫pさんのとこを読んで思ったんだけど、

わたしは昔から、文章を書くことが好きじゃないのね。

小・中学生の頃に「あら。わたしって文才ないわ」と気がついた。そのときにたぶんこときれたわけよ。

 

でも、溜まってくる思いは、少しでも形にして話したい、つうことがブログをやっている理由。

 

 わたしが思う文才っていうのは、紙文化の文才のことで、今のネット上の文章っていうのは、また違うのかな、って思っている。

記号的な文章がよいのかなぁ?

記号的ってつまり、ほら、絵的な文章?

上手く言えないけど、漢字みたいに一目で分かる、読むんじゃなくて見る文章っていうか…。

 

 

ハルオサンさんみたいな。ここをまけもけさん→自由ネコさん経由で知って、読みまくって、号泣したという、おいら。.°(ಗдಗ。)°.

www.keikubi.com

 

 

三つ子とワンオペ育児

豊田市で起きた、三つ子の次男死亡事件について。 

この事件の裁判で刑の軽減を願う署名が2万人集まったそうです。

 

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まだ、ワンオペ育児を強いられ、怒りや窮状を訴えたい人がいるんだぁ、とわたしは思いました。(これはわたしの妄想です)。

 

 この妄想に沿って、わたしの思うところを書きますね。

 

彼女たちの主張は2つくらいなのかなと思います。

赤ん坊には母が必要だ、という事と、ワンオペ育児の悲惨さ(自分だってやりかねなかった等)。

 

 けれど、裁判はこれらの問題によって、情状酌量されることはあっても、子供を死なせたという罪がうやむやになるわけではないでしょうと思います。

 

「母親が必要なのか」ということについては、猫pさんが書かれています。

 

それで猫pさんがコメ欄で「2人の問題なのに話し合うことすらしないという相手と結婚するということが全く理解できません 」とおっしゃっていて面白いなと思いました。

 

 何故、夫と育児について話し合えないのか?

 

 わたしの夫も子育てに関心のない、時間のない人で、ワンオペ育児みたいなものでしたが、わたしには助けてくれる友人や母がいました。

 

女が「とても育児が大変だ」と夫に言う時、

「なんとかやってくれよ。僕もいっぱいいっぱいなんだ」

と、答えが返ってきて、そこで、諦めたら、たぶんもうワンオペ育児の始まりです。

 

二人の生活というのは、二人のリズムを合わせなければならないし、それは利害の衝突でもあって、二人で問題を解決する、ということを最初に諦めた時点から、不思議なことに二人の力関係は固まっていきます。

 

ゆずることが出来る条件は多少なりとも自分のほうにあると思うと、頑張って主張できなくなってしまうメカニズムがあります。

 

二人で工夫して考え、解決方法を見つける、ということを諦めるのは、それがとても大きな労力を要するからだと思います。場合によっては相手の価値観、信念とのぶつかり合いに発展しかねないからです。

 

たとえ、ゆずることが出来なくとも、10分間だけでも、相手をねぎらったり、思いやったりすることが出来ればいいのですが、これが意外と難しいのです。

二人は別々のものを見ているから、視線が合いません。

女は子供を、夫は仕事しか見ていない…求めるものも気遣う対象も違うのです。

 妻がぶっ倒れて病院に担ぎ込まれるまで、妻の疲れ切った顔に気がつかない夫もよくいます。

 

結婚って笑い話みたいね。(๑・̑◡・̑๑)

 

 

 

叫びとささやき

イングマール・ベルイマン監督、脚本。1973年。出演カリ・シルヴァン、リヴ・ウルマン。イングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルセン

 ツタヤ発掘良品。ネタバレ注意!

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「美」には普遍性がない。…とカントがもうしておりやした。

とても個別的なものなんですね。美というのは、対象に対して抱く、何らかの個別的な情動的感性、なんだろうと、わたしは思っています。

 

驚き、恐怖、スリル…が快感になる、こうしたことも、ある美的な経験だと思います。

 コクトーなぞは、「美とは驚きである」っつてましたね。

 

とても若い時に、ベルイマンの映画を見たわたしは、衝撃を受けました。

やっぱり、何か美的な経験だったのだと思います。

 

そして、ツタヤの発掘良品コーナーでフェリーニベルイマンを見つけて借りたわけです。

フェリーニは昔通り感激しました。

今回はベルイマンです…。

 

 

左から長女カーリン、女中アンナ、三女マリア。

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ベルイマンは映像化に伴うすべてのセンスが、半端なくすごい、すごすぎる!

そして、人物造形も余計なものを削ぎ落として、ピンポイントで迫っていく。

あと、風景の映像がわたしはものすごく、やっぱり好きだなあ、と思いました。

つまり、昔のわたしが衝撃を受けたのは当然だったわけです。

 

今回ですが…そうした衝撃は弱まって、彼の物語が、あらあ、あんまり好きじゃないなあ、と思ったです。

 

 

この映画は、貴族?の三姉妹がいて、次女が病気で死にかけていて、それを看取るためにやって来た二人の姉妹と女中のお話なんです。

次女を軸に姉と妹、女中の人間性をえぐってゆきます。 

 

病床の次女アグネス。

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 妹は浮気性で、(時系列に自信がないんですが)一度浮気がバレて、旦那さんは、自殺未遂を起こします。がっ、そのあとも、男を誘っているような女です。

でも、すごく可愛いし優しい人です。彼女は、姉や女中に比べると、普通の人だよなあ、と思ったです。

 

姉は…自分の陰部を傷つけて、その血を自分の口に塗りたくる、つう、それも、旦那とのセックスを拒否するために。もう、頭おかしいです。まあ、たしかに、「疲れてるの…。」みたいなことをゆっても引き下がるような旦那さんではないんだけど。

 

女中さんは、自分の赤ちゃんが死んでしまって、以来、次女に献身的に尽くしている人です。

 

ここら辺のことが何とも言えない張り詰めた世界観の中で表現されていきます。姉妹の喧嘩の映像表現も愉快なんだけど、まあ、字数もあるのでやめとこ。

 

で、この映画のエグさは最後にやってきます。

 

 死んだ次女がベッドに横たわっていて…つまり、死人が泣くわけです。ああああ、うぅぅぅ、って。

「辛い、寂しい、ここは真っ暗な虚無なの。側にいて。」って。

 

二人の姉妹は硬直してます。

姉は「わたしは、お前を愛していない。一人で頑張りなさい」みたいなことを言います。

妹は手を握ってあげるのだけど、死人が抱きついてきた時点で、ぎゃあー、つう悲鳴とともに逃げ、女中がまさにピエタを思い出すんですが、死人を抱きます。

片肌脱いで、胸を出して、赤ん坊を抱くように。

 

女中のアンナと死人

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葬儀が終わり、みんな帰って行きますが、形見分けを断った女中は、次女の日記を隠し持っていて、それを読み始めるところで映画は終わります。

 

 

なんというか、ベルイマンには、絶対的なものに対する強迫性を感じちゃいましたよ。

泣く死人に対する二人の姉妹の反応は、性格的なものに過ぎないと思うし、愛の話じゃないし、ましてや、真実の愛の話でもないでしょ?

おまけに、真実の愛なんて、どーでもいい。と思います。

二人は、看取りに来たんだし、それで十分よ!と、私なら思います。

 

鈍重そうな女中は、彼女は、日記を読むんです。答えが欲しいんです、自分の献身、愛に対しての答えが。

もっと言えば、朝のお祈りを欠かさない信心深い彼女は、神の返事を待っているんですよ。

 

これは、そういう天なる声を待つ鈍重な強い女の映画だと思いますし、彼女が主役だったんだな、と思いました。

 

わたしは彼女が苦手です…。