ザ・サークル

綺麗だな、と思ったエマ・ワトソンがどんどん嫌いになる…。 

 

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デイヴ・エガーズ原作、ジェームズ・ポンソルト監督、2017年。

 エマ・ワトソントム・ハンクス

 

おぉ!ハーマイオニーが美しい女性になってるぅー!

表情に綾があって、麗しいのよ。

 

喜んで見てたら、どんどこエマワトソンがアホタレで、うっへぇー…嫌いだぁ…ってなる、映画、つうかTVドラマみたいな映画だった。

 

ん、いや、エマちゃんはアホタレなんだけど、頭は良いのよ。

なんせ、巨大な総合SNSテクノロジーみたいな会社で頭角を現していくわけで。

 

エマが親友のカレン・ギランの世話焼きで就職したサークルという会社は、超小型カメラをあらゆる場所に設置して、あらゆる(契約した)人が、ライブ発信できるSNS的なものを運営開発しているんだ。

 

これがね、意味するところは、プライバシーの破壊なのね。

エマはこの恐ろしいSNSを「秘密は嘘」だとか言っちゃってプロパガンダの先頭に立っていくわけ。もうもう…アホ。わたしの1億万倍、頭が良くてもアホ。

 

もっとも、創業者のトムハンクスもエマも、発端は善意なのよ。いわゆるk777さんがおっしゃる「地獄への道は善意で舗装されている」なの!

犯罪やテロの撲滅、事故を防ぐ、政治家の腐敗を暴く、等々、盛りだくさんな平和と安全が喧伝される!

しかし、その代償は、管理社会、全体主義なんです。

 

個々人が拍手喝采しながら押しつぶされていくんですよ。

 

 しかし、エマはトムハンクスら創業者の軽いノリから起きた悲劇に対して、ある事を企む。

 

それは、サークルという会社自体の透明化、権利、権力の透明化を企むのだけど…ね。

エマがいくら微笑んだところで、トムハンクスが見せた唯一、映画らしいショットの前に潰されてしまえ!とか思うわけよ。 

 

 

噂のアンパンチ

子供が2歳くらいの時、チッコイ背中を丸めてチッコイ椅子に腰かけて熱心にご覧あそばしていた「アンパンマン」である。 

 

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まけもけさんがアンパンチの暴力性について話題になっているよ、と話されていて、そう言えば、むかし、やなせたかしが「子供向けに描いたものじゃない」とか言ってたなぁ、と思いながら、笑って読んでいた。まさか、ほんとに話題になっていることだと思わなかった。

ももはなさんが「そりゃないぜ!」と言うまで、アンパンマンのアンパンチが子供によろしくない!!と一部の人がほんとうに問題視していることを知らなかった。

うひゃぁ、である。

 

わたしに言わせれば、子供を温室で育てることはできないし、様子を見ながら、その都度、子供に対応するしかないのだ。

 

たぶん、わたしは悪いと言われかねないものを平気で見せてきたような気がする。

第一に、子供がせっかくの人畜無害のディズニーを嫌ったのだ。

 

かっきりこっきり因果関係を説明しきれないことを原因として糾弾するより、子供への対応に心を砕いたほうがよかろうもんよ。

 

しあわせの隠れ場所」という映画がある。

サンドラ・ブロック演じる金持ちの家にホームレスの子供が引き取られる。

その子供は犯罪者や薬中だらけの劣悪な環境で育ったのに、とっても良い子なんだ。

何故、彼が悪に染まらなかったかというと、彼は汚ったない家に転がっていた雑誌の挿絵の中に逃げ込んだから。

その絵は、家族のクリスマスか何かの絵で、食卓には華やかにご馳走が並び、みんな笑って幸せそうなんだ。

子供は彼を誘う恐ろしいものが押し寄せるたびに、その絵の中に逃避した。

 

そいう逸話が映画の中で描かれていた。

 

 

映画なので、もちろん人によっていろんな感想があり得る。

「環境ってやっぱ怖いんだ…。」

「理想的な家族が大事なんだ」

「どんな環境でも子供って育つんだ…。」等々。

 

 とても印象的で心に残っている。

 

 

 

愛のギョウザ

二人並んだ背中を覚えている。 

 

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父と母は二人でとても美味しいギョウザを作った。

ギョウザの皮作りに手間取る母を見かねて父が手伝いだしたのだと思う。

 

わたしにとって、ギョウザは愛である。\( ˆoˆ )/

 

焼き餃子にするときは、薄力粉と強力粉を半分ずつ。

水餃子は、薄力粉は3分の1くらい。

ボールに小麦粉を入れ、塩を入れ、手でグルグル。

よく混ざったら、水を入れて捏ねる。

 

これが父は上手かった。

生地を袋に入れて、足でふんだりしていた。

 

捏ねあがった生地を棒状にして、金太郎飴のように切り分ける。

それをのし棒で、丸いギョウザの皮にのしていくのだ。よく、父の器用な手元を覗き込んでいたものだ。

 

ギョウザ作りは愛なのであるからして、後年、わたしも、Rのために張り切ったものである。

そしてガキンチョがいて、わたしは仕事もしていて、いつしか、ギョウザには市販の皮が使われるようになった。

 

 ある日、わたしはギョウザを作った。

今回の具は野菜多め。水気のある野菜は塩もみをしてギュッと水分を切る。ポイントは、ニンニク、生姜、そして、鶏ガラスープ少々。具の感じを見て、ごま油かサラダ油を垂らして出来上がり。

 

さって、包もう、と思ったら、冷蔵庫に残っているはずだった皮がなんと10枚しかないっ!

 

すごく焦りながら、パンコネ機に小麦粉と塩、水を放り込んだ。

取り出して少し手で捏ねて、1ミリか2ミリ厚さにのばし、パンパンと型でぬいた。

穴だらけの残りを手で捏ね直して1、2ミリ厚さに伸ばして抜く。最後の一枚は多少小さめだけど、20枚完成。

 

子供達と一緒に包む。

二つに折った皮の手前側だけを3箇所折り込む。

いくら教えても子供達はできなかったなぁ。

 

「どう?手作りの皮は?」

 

「えー?わかんない。」

「おんなじ。」

「いつもとかわらない。美味しいよ?」

 

とみんな口々に言った…。

 

なーにが、愛よ!

これ以降、ギョウザの皮は決して手作りされなかったことは言うまでもない。

 

ギョウザの愛はね、わたしだけの両親の思い出、わたしだけのものさ。