コメディドラマや、コメディリリーフが好きだ。わたしは滑稽味のある役者にも目がない。昔は、ゴールディ・ホーンやトム・ハンクスの喜劇をよく借りた。
「花不棄」アリエル・リン👇
時を経て、
今、わたしは中国ドラマの中に、ゴールディやトムに匹敵する役者さんを見つけた。
フー・イーシュエンやアリエル・リンという女優さん達だ。
イーシュエンのポカンとした「間」に吹き出し、リンさまの滑稽味に、ほのぼのと笑う。
気軽に笑う、のだけど、「笑い」の裾野はめっさ広大だ。
笑いには、人を傷つける「嘲笑」も含まれる。
プラトンは「笑い」を憎んだ。彼は「笑い」を不道徳だとか言って切り捨てる。
プラトンの気持ちは、分かる。なにせ、師匠のソクラテスは、喜劇のネタにされ、嘲笑された。ソクラテスは、それも原因のひとつになり、扇動された世論の高まりで、死刑を宣告されたのだ。
嘲笑は現代のネットでも蔓延っている。アラシの元になったり、嘲笑された人が自殺してしまうこともある。
1人の男子生徒を小突きながら、嘲笑う数人のいじめっ子達、という韓国のドキュメンタリーを見たことがある。
「嘲笑する」というとこに特化して見ていくと、いじめっ子は、どうして虐めるのかと問われ、楽しいと答えた。笑っているのだから、そりゃあ楽しかったんだろう。ところが、いじめっ子は、虐めている映像を見せられて動揺するのだ。彼らは、嘲笑していた相手の痛みを始めて理解した。
思うに、嘲笑は、凡人であれば、誰でもできる。言ってみれば、凡人にはこれしか出来ない。嘲笑を機知やウィットに富んだ害のない笑いに変えるのは、才能があって、人を気遣うことの出来る特別な人だ。
してみれば、プラトンの「笑い」に対する罵詈雑言も、わたしのような凡人を気遣っての事かもしれない。。
誰が言ったのか覚えていないけど、有名な笑い話。
「少年の頃、笑いを押し殺すのに苦労した事がある。日曜日のミサだった。神父の説教を聞いていた時、講壇の前をネズミが横切り、厳粛、荘厳な説教を台無しにした。」
始めて聞いた時には、思わず声を出して笑ってしまった。1匹の無垢なるネズミは、厳粛な説教と規律ある信者たち、双方の生真面目さをあっという間に解体してしまったのだ。
笑いのネタにされているのは、厳粛な神父だけじゃなく、笑ってしまった少年、信者たちもだ。嘲笑とは次元の違う笑い。
アリエル・リンや、トム・ハンクスは、「花不棄」「マネーピット」「ビッグ」の中で、いわば、無垢なネズミをやっている。
トムハンクスは子供のような目をしているし、アリエルリンはつぶらな瞳をしている。2人は子供っぽい純真さを纏っている。
トムは、輝く子供の目で常識をひっくり返していく。自身をネタにしたドタバタは、自虐的にならず何処か温かい。
アリエルは、窮地に陥っても、予想される状態から必ずズレて見せる。彼女の滑稽味の根底には、いつも、希望があるのだ。
彼らの滑稽な演技を支えているのは、人に対する優しさや愛といった矜持なのだ、と思う。
👇フー・イーシュエンは、ゴールディ・ホーンを思い出す間の取り方をする。
「親愛なる君主様」の彼女を見ていると、往年のゴールディが蘇ってくる。
ただ、ドラマ自体はヘンテコだ。
「花不棄」も、アリエルリンだけを見つめているのに限る。
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ヨーロッパ中世の修道院では、「笑うこと」が厳格に禁じられていた。つまり、「笑い」は、現実をひっくり返したり、無化したり、解放したりする力を秘めている。
修道士の心が開け放たれたら、そりゃぁ、困るわけだ。。
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トムハンクスは後年、シリアスな演技派に転向し滑稽味を封印した。残ったのは、彼の生真面目さだけである。清教徒の国はこれを歓迎し、アカデミー賞を与えた。。