ワイヤーアクションと道教

道教を理解すれば、中国文化が分かる」

これは魯迅アフォリズムだと書いてある。

なるほど。。

神仙は、天上の城や、崑崙山や、桃源郷で暮らしている。もちろん、神仙は飛べなくちゃいけない。心が躍るほど、マンガチックである。

神仙絡みの中国ファンタジー時代劇や武侠ドラマを楽しむために、わたしは、道教について聞き齧ったことをメモしておこう。

 

 

神仙思想は、

道教の「根幹」と書いてあるものもあれば、「中核」と書いてあるものもある。

道教の根幹は、老子の「自由思想」だとわたしは推測する。

であれば、老子と相性の良い超人的な神仙を組み込む事は、必然だった。

 

長い変遷の歴史を飛ばして言うと、神仙思想とは、「人は、修行すれば、神仙になれる」というものだ。つまり「人は神(に近い存在)になれる」という考えなんだ。

 

孔子春秋」というドラマの中で、孔子は敬愛する老子と会う。

道教と対立する儒学の祖である孔子は、キリストみたいな愛の人だ。彼は、飢えてゴロゴロと死んでいく民を放っておけなかった。

かくして孔子は、民を救い、権力者の戒めとなる倫理を構築した。時を経て、その高度なシステムは、民を支配するための規範として利用されていく。。

 

権力者階級には儒学があり、一方、道教は民間に深く根付いていった。

道教の影響を受けた通俗小説は、長い間、、いま現在も、庶民を楽しませている。

 

そもそもの神仙思想は、「不老不死になれる丹薬」を神仙から貰うことだった。そのうち始皇帝にせっつかれて、人はみずから、丹薬を創り始める。

しまいには、「おい、薬を飲まなくとも、修行で体内に丹薬を作り出せるんじゃないか」と言い始めた。そして、気が遠くなるような厳しい修行をして、体内に「陳情令」のあの金丹を持つようになった!「気」「内功」の発生源だね。

 

「陳情令」の彼らは、剣で飛び、宙を舞いながら戦う。武侠者で、下級の仙人だ。

ワイヤーアクションで飛ばないことには、修行者と言えず、ましてや武侠者を名乗れない。

 

わたしは、子供のころ、忍者に憧れた。水の上を歩き、分身の術を使う!けれど、大人は誰も信じない。

「忍者の術?ケッ!」

当たり前の反応とはいえ、心無い大人たちであった。

しかし、何故、中国では、道教的なものが見下されないのか?

 

なぜなら、道教の神仙思想には「飛翔する強い生命力の謳歌」が根底にある。と、わたしは思う。神仙に近づこうとする生命の力は、生きる力であり、破壊でもあり、創造でもある。

 

魯迅の「野草」を否定するのは容易ではないだろう。

もっとも、孔子は血を流し踏みつけられる野草をみて、倫理を説いた。民には、福祉の補完として「孝」という助け合って生きる方法を教えた。

ある意味で、野草を踏み越えて行く自由な力を持った生命の否定である。

 

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中国時代劇には、道教だけでなく、倫理的(儒教的)で、明朗な優しさも混じっている。