子育てと自己否定

子育て中のブログを読みながら、つくづく思った。

子育て中の幸せや苦労は、皆、なんと似通っていることか。。

多分、似通るのは、、、「社会から隔絶され、室内で行うしかない数年にわたる子育て」という条件にあるのだと、わたしは思っている。

子育て時代を思い出すに、この「社会から隔絶された」感じは、つまるところ「孤独感」なのだった。

おかしな話しだけれど、Rがいて宝物のような赤ちゃんがいて、わたしは孤独だった。

この孤独は、劣等感や不安感をもたらした。

 

「人は社会的な生き物である」「社会的な関係の束が人間である」かどうかは分からないが、もし教育が、社会の中で生きるための常識や慣習を、暗に教えるものならば、社会から爪弾きにされ、置いてきぼりになるような孤独感は、教育の賜物だったかもしれない。

 

わたしは、子育て中、劣等感を抱えていた。

理想と情けない自分、

そもそもわたしの頭の中にある世の中では、ネオンサインのように輝く立派な理想がこれ見よがしに建っていた。「輝くものに向かって実りある人生をおくらねばならない」と書かれている。どういうわけか孤独感は、この風景を引っ張り出した。

だからわたしは、逆にちっぽけな理想を持った。

「可愛いお母さんになりたい」「美味しいものを食べたい」

 

散歩がてら、乳母車を押して買い物に行く。同じく子育て中の友人が呑気な顔で笑うのを見て、これで良いんだ、と思う。

「今、ここにある花を見よう」、そうやって生きた。

 

わたしの劣等感、自己嫌悪は、3年後、保育所に子供を預け、仕事に復帰したことで、解消された。

 

後日談

3才保育は息子に向いていなかった、という事を、ずいぶん経ってから知った。

彼は、保育所に来るなり、わたしの作った昼用のお弁当を食べ、窓辺に立って家の方角を見ていたそうだ。1年間、ずうっと泣いていたそうだ。

も、、仰天した。。