慶余年と中国ドラマに惹かれる理由

わたしの住む世界は小さい。年を取ったわたしの動きは狭まり、より小さくなった世界の中に居る。不思議なもので、そんなわたしは社会を理解した気でいる。

 

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時々耳にする日本文化という言葉。けれど、その文化は多層的だろうと思う。

例えば、貧乏な階層の文化や金持ち階層の文化は違うだろうと思う。

 

わたしは貧乏な文化圏の中で生きてきた。

生きることは優しくない。わたしは泣いたり笑ったりしながら、気がつけば、その中でみんなと同じような事をしながら、生きてきた。

しあわせな人生だと思う。

 

中国時代劇のドラマは、そんなわたしの心持ちに、めったんこびったり、と合う。

ドラマに散見される彼らは、社会の中で悪戦苦闘しながらでも、個人の生活を生きていく。

なんて言うか、社会制度の中で個々人はどう生きるのかが問題であって、個々人の生き様でドラマは出来上がっている。

 

韓ドラのように、社会制度と個人の呻吟のような、苦痛と重苦しさは、ない。

 

中国時代劇の登場人物は、個人主義っぽい自由な人々だ、という印象を持つ。

彼らの折り重なっていく生活の回りに、孔子の教えである倫理的な感情があって、それが、社会制度と、自由な個々人を結びつけている、のかなぁ、と思う。。

共産主義を可能にしたのは、「愛の人であった孔子」かぁ、と、、夢想。

 

「慶余年」というドラマでは、何かを待っているシーンがある。5歳くらいの男の子は、門の前に腰を下ろして、待っていた。

そうして、子供は青年になった。

わたしは、このシーンが好きで…何故好きなのかの理由は、長くなった前置き部分で、それが詰まっているシーンなのよ…。

 

…うん。