「引きこもり」と「外部」と「個」

芝生には雑草が侵入し、もはや草地…。 

どこから飛んできたのか、ルピナスが草地に芽を出した。

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なんていうか、プライベートとパブリック、もしくは「個」と「外」、そいう対立する概念を念頭に置いたとき、わたしにとっての「個」とは、この草地だなあ、と思うわけ。

わたしというプライベートな個は、芝生だったんだけど、外部と接触する内に、影響、侵食され、あるいは、融合が進み、別のものになっていく。

 

ところが、映画を見ていて思ったんだけど、外国人にとっての「個」ってのは、たぶん、もっと絶対的で強固なんじゃないかなあ、って。

つまり、彼らにとって(映画作品が念頭にあります)、外部との接触は、コンフリクト…葛藤、争いなのであって、感覚が違うのではないかなあ、と。

 

いや、別に、わたしの個がよわっちいとかいっているのじゃなくて、個ってもののイメージが曖昧で境界線も曖昧なのかなあ、ってことなの。

 

もし、外国の引きこもりが日本ほど多くないとしたら、そこらへんに理由があるのじゃなかろうか?

 

昔、NHKのドキュメンタリー番組で、引きこもりについてやっていて、すごく印象に残っている。

長年引きこもっている兄を(何か映像関係か何かの仕事の)弟がビデオに撮り始める。初めは、怒ったりしていた兄だけど、きちんと画面に向かって話すようになっていく。最終的には、その兄は、部屋を出る。少しずつ、外に出て行くのだ。

 

ビデオに撮る、ってことが引きこもっている状態を好転させたのは何故なんだろうと、ずうううううっと思っていた。

 

 思うに、兄は、ビデオという間接的な外部を前にして、少しずつ、自分の個の境界線を準備できたのではないかしら?と思うんだ。

 

 そもそも、「個」ってものについて、ギリシャなんかに比べると、日本では新しい概念じゃないかと思う。

 

個ってものは、誰からも、何からも、脅かされることのない確固たるものである、というイメージをどれほどの人が持っているだろう?

…もちろん、これはこれで過酷な問題が出てくるだろうけど。 

 

 

 

 咲きかけの大手毬。オレンジとイエローのツツジ

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