この世界の片隅に

片渕須直(監督、脚本)。こうの史代(原作)。

 

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火垂るの墓」以来、可哀想なのは見たくない、と思っていて、先延ばしにしていたのを、ついに見た。傑作でした。

 

片渕須直監督は、ジブリ出身なんですねえ。 なんでも「魔女の宅急便」の監督をやることになっていたけど、スポンサーが宮崎監督じゃないと金を出さないと言ったとかで、監督を降りたらしい。その後、ジブリを辞め、TVアニメの「名犬ラッシー」「BLACK LAGOON」などで、活躍。アニメ映画「マイマイ新子と千年の魔法」を撮っています。

 

この世界の片隅に」を撮ることになったときも、十分な実績があるのに、金が集まらなくて苦労したらしい。宮崎駿の次のアニメ作家を待ち望む声が多いけど、もしかしたら潜在的にはいるのかもしれない。ただ、お金がなくて、映画を撮るところにまで浮上できず、潰れていってるのかもしれない、と、ちょっと思ったです。

 

片渕監督は、考証の鬼でして、この映画も6、7年かけています。(どんだけ細かい事にまでこだわったのかは、ネットであちこち出ています)、例えば、空襲で味方が応戦して大砲など撃つけど、その時空にボン、ボン、雲の塊みたいなのが出来る、と。それが綺麗なんです。色とりどりで。で、これは事実であると。どの戦艦が撃ったのか分かるように、煙に色をつけていたそうで、当時の人の日記にも綺麗だった、とかあるそうです。

 

 

この映画は、戦争が始まる直前から終わるまでのスズという女の子の日々の暮らしを描いたものです。

市井の人々の暮らしに強大な力で戦争の暴力が徐々に侵犯してきます。しかし、映画が焦点を当てているのは、スズ、及び周りの人々の日常です。

 

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日々の暮らしとはなんでしょう?

それはある意味、「生」 そのものかもしれません。食べること、眠ること、そうしたことがままならない程の事態をスズたちは、淡々と過ごしていきます。

 しかし、戦争は、スズからかけがえの無いものを奪っていきます。映画はスズがそうした悲劇から立ち直っていく様ははっきりとは描いていませんが、それを十分、予感させるエンドールの様子などがあります。 

 

わたしは、この映画の後、「マイマイ新子の千年の魔法」を見ました。

この映画の最後、新子とキイ子は茎の様なもので草笛の様な音を出し合います。ああ、こうして元気よく終わるんだな、そう思った次の瞬間、千年前の新子とキイ子が土手に並んで腰掛けている後ろ姿、そして2人は草笛を吹きあっています。一瞬の映像でしたが、涙があふれました。

 この映画は、一千年前もおなじような子供達がおなじような日々を暮らしていた、そういうファンタジーを交えながら、現在の子供達が元気よく日々を過ごしている様が描かれています。

つまり、ディオニュソス的生の讃歌です。生の肯定です。

 

わたしの涙は、感傷だろうと思います。なぜなら、「この世界の片隅に」の余韻があったから。「この世界の片隅に」は、わたしがまともに心を凝らしてみれば、発狂しそうになる事態が描かれています。刈谷さんちのこととか、スズとはるみちゃんのこととか。

けれど、スズたちは困難な日々を受け入れ、肯定しています。力強いのです。

 

 

 [人間の偉大さを言い表すための私の定式は運命愛である。すなわち、何事によらず現にそれがあるのとは違ったふうのあり方であってほしいなどとは決して思わないこと、前に向かっても、後ろに向かっても、永劫にわたって絶対に。必然的なものを耐え忍ぶだけでなく、いわんやそれを隠すのではなく──理想主義というものはすべて必然的なものを偽り隠す嘘だ──、そうではなくて、必然的なものを愛すること…ニーチェ

 

自分の情けなさを思うとともに、この映画はかなり危険な綱渡りをしている、と思いました。