春−コロナの意志カード

 ただ、生きている、わたしは。シベリア桜が咲いてレンギョウが咲いた。

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わたしは社会の役にもたっていないし、ちょっと幸せにただ生きているだけの人間なんだ。 

愛読しているnanigotoさん👇の記事を読んで、そういうことを思った。

 

www.nanigoto.net

 

 「医療崩壊が起こった際、高齢者などが若者へ高度医療を譲る意思表示する」ということらしい。

 

海外では、コロナ崩壊の際に、高齢者が若者に譲った、ということもあったらしい。

キリスト教的な愛がバックボーンにあるのかもしれない。

 

洋画では結構よくあるシーンで、主人公が救急テントに運び込まれる。薬は、あと一本しかない。その時、騒ぎを見ていた年寄りが「あの若者に、やってくれ。わたしはもういい。」と、自分も瀕死であるのに譲るのだ。

今までは「ああ、よかった」と、主人公が助かって喜んでいた。

 

けれど、この記事の意志カードについては、何か哀しくて、自発的−姥捨山だな、と思ってしまう。

映画の年寄りの譲る決断とはどういう心境だろう?

それは例えば、50歳の人が30歳に薬を譲る、30歳が10歳に譲る、突き詰めれば、それらの場合と、感情的には変わらないのではないか?

 

もちろん、高齢者は、50歳や30歳とは条件が違う。

十分に生きた。

わたしのように、もう役に立たない、と思うのだろうか?

 

緊急の現場で、医者に−高齢者から呼吸器を外す−というような可哀想な選択をさせるくらいなら、意志カードを持とう、という気持ちはわかる。

 

昔わたしは、30歳になったら死のう、と思っていた。その時のわたしにとって、30歳は途方もない年寄りだった。

 

ぽっかぽかの春だ。

春の息吹きの美しいこと…。