ローランド・エメリッヒ監督。ウィル・スミス。
1996年のSF映画。
衝撃で、わたしはひっくり返った。
二人は、かしこまって並んで座り、ふっくりした頬には滂沱の涙が流れていた。
呑んだくれ親父(ランディ・クエイド)が母船に突っ込んだシーンだ。
わたしは、映像を見ながら「イエーィ!」などと声をあげ、笑いながら、二人の小さい息子たちを振り返った。
まさか、泣いているとは思わなかった。
だから、最低ラズベリー賞にノミネートされたこのヒット作品は、わたしの記憶に残る映画となった。
ランディが演じた親父さんは、漫才師みたいなユーモラスなキャラだ。
この呑んだくれ親父さんは、確かに悲劇の英雄には違いないけど、ギャグでしょ?みたいな楽しい興奮は伝わってきても、感動などさらさらあり得なかったわけ、わたしは。
しかし、よく考えてみれば、目が曇っていたのはわたしなのか、と思う。
わたしにとっての英雄とは、重く崇高で悲劇性に満ちたものであるべきだったのだ。
けれど、英雄とは、行動が全てなのではないのか?
崇高さなんぞは、後の人が付け加えたものだ。
幼い子供達にとって、あの親父さんが纏っていたものが喜劇だったとしても、彼の取った行動は英雄そのものだった。
ウィルスミスとガーフレンドの息子。
この映画はヒットした。ウィルスミスの魅力がキラッキラ!
けれど、評論家には不評。
この映画は群像劇で、
ウィルスミスのパート、大統領のパート、大統領夫人のパート、飲んだくれ親父と子供達のパート、pc修理人の科学者のパートといった具合。それらが、ラストの決戦に向けて収斂していく。
ウィルスミスあたりに俯瞰の視点を置き、観客を引っ張れば、アラは目立たなくなると思うがどうだろう?
けれど、俯瞰の視点は観客にあり、パリスの審判をやらされる。
エメリッヒ監督は、名作TVドラマ「スターゲイトSG1」の元になった映画、「スターゲイト」という傑作を作った人だ。
もうもう、それだけで、すごいこと!