彼女の愉快なボケは、無視された。 ツッコミがない…。
中国の時代劇を見ていて不思議に思った。ボケに対するリアクションを映さなかったり、反応が無かったりする。
ボケとツッコミの「ツッコミ部分」は省略されるか、ごくごく普通な返しをするんだ。
物凄く不思議で、わたしは首を95度くらいは傾げていた。グキ。
でも、「大明皇妃」を見ていて、ツッコミは観客の役目なんだな、と思ったんだ。
中国時代劇によく登場する茶館では、講談師の語る英雄譚を客たちが楽しんでいる。
日本でもこうした場所があれば、客は合いの手を入れたり拍手喝采したりということはあるだろうと思う。
これが中国ドラマでは、合いの手のみならず、「それはおかしいだろう」「なぜ、助けなかったんだい?」といった質問や意見が飛び交うのだ。英雄譚の最中に。
講談師の話にはもしかしたらニュース性があったのかもしれない。ともかく、客は講談師の話に積極的に参加する。
わたしは、ボケに対するリアクションを見るのが好きだ。
参加するよりは見る方が「場を楽しめる」と言って良いかな?
でも、中国ドラマでは、さぁ、ボケました、観客はそれぞれツッコミを担当してください、となっている。
日本の映画館でこれをやられたら、辺りを見て、みんなが口々に何か叫んでるなら、わたしだってついでに「ヤッホー」くらいは言うかもしれない。
ボケの台詞や表情を笑い、相手の反応を見てまた笑う。 反応を見る、という習性は、場の雰囲気や空気感を楽しむ習慣がわたしにあるということだと思う。
場の空気を見る習性には、別の言い方がある。
悪名高い「忖度」 、良い方にも悪い方にも転ぶ「みんな一緒」「和」、、
「場を見る」ある種のコミュニケーション文化から、、の忖度のような「場の支配」のあいだには、溝がある。
なんだろ?
わたしは、人はみんな個性的だし意見を持っているはずだ、と思っているよ。でもわたしは、多人数で何かを話す時、これは譲れない、ということ以外は、平気で人に左右され流される。
多分、どうでも良いからだと思う。
虚無なん?