「おませな子ねぇ」とおばさんは母に言った。
5才くらいのわたしは、何かを答えたか質問したのだが、おばさんはわたしを無視して、母にそう言ったのだ。
ませた子だ、おませね、と言われるたびに、馬鹿にされているようで子供心にとても嫌だった。
井戸の底に書いた「足元が崩れるような虚無感に怯えた」という感覚は、多分、たまたま、起こったに過ぎないことだと思う。
本の中にもチラホラと、似た感覚について書いているものがあった。
ならば、無名な人の中にも、似たような感覚に覚えのある人はもっと多くいるのじゃないかと思うのだ。
当時のわたしの質問はこうだった。
「わたしは、どうして居るの?」「生きることの意味ってなに?」
大人も子供も、それに対して、人生教訓めいたことしか言わなかった。そもそも、わたしは自分の感覚を言語化できなかった。
一番近い問いは、中学生ごろ、考えついた。
「宇宙はどうしてできたのか?」
この問いについては友人たちと楽しくお喋りができた。もっとも、考えつくことは、玉ねぎの皮で「巨人が箱の中の宇宙を観察している」。
なぜ、この感覚について書いてしまうのかといえば、始めて理解されないことの寂しさを味わったからなのだ。
猫pさんとたろ子ぱんさんがコメントしてくれたので、ちょいとまとめてみる。
あんな感覚に長いこと囚われたのは、損しちゃったなぁ、と思うし、少女時代は…叩けばホコリも出るが、好きな友人は不良少女だった。(๑・̑◡・̑๑)